むかし、むかし3
10年ほど前まで広尾神社境内に保存されていた笄川にかかっていた広尾橋の欄干。右手の木製と左手の石製のものがあるが、石製の欄干の方が年代が古いとのこと。 関東大震災の復興事業で笄川が暗渠化されたのちに、広尾神社で保存された。また明治期には広尾橋の欄干に几号水準点が掘られていたという記録が残され ているが、広尾神社が所有した欄干に掘られていたのかは不明である。 現在欄干は渋谷区郷土資料館に保存されているとのこと。 ◇広尾の庚申塔拝殿の七枚つなぎの天井板に竜が画かれ「藍川藤原考経拝画」の銘がある。日本洋画家の先駆者高橋由一画伯の日本画最後の大作として 貴重なものである。 社殿裏側道路に面して三基の庚申塔がまつられている。全面に手水鉢が付されてある。昭和五十五年十一月十五日港区有形文化財 に指定された。 |
嘉永2年(1849年)11月11日の正午頃、麻布日ケ窪の長府藩毛利邸の長屋で一人の赤ん坊が産声をあげた。父は馬廻役の乃木十郎希次、母は寿子、赤ん坊は二人にとって3人目の子供であった。しかし前の二人は早世していたため事実上の長男となった。無人(なきひと)と名づけられたその子は、虚弱な体質で次に生まれた妹のキネにさえよく泣かされた。しかし六才下の弟真人(まひと、後に正誼)は、兄と違い 生まれつき体も大きく腕白で気性も激しかったので、父の希次は長男無人のひ弱さに頭をいため、真人の将来に期待した。 |
明治初期に「錦絵新聞」というものが、流行った。これは、絵草紙屋が新聞記事の中から、殺人、痴情、美談、怪異などの庶民受けけする 題材を選んで、記事を付けて錦絵に仕立てて販売したもので、現代の写真週刊誌に似た性格のものといえる。「東京日々新聞」、「郵便報知新聞」は代表的な2大紙であり、さしづめフライデ−とフォ−カスといったところか。 |
明治8年6月市兵衛町に設立された、第二中学区第一五番小学麻布学校は麻布区で最古の公立小学校だが、それ以前の教育は、私立の寺子屋、私塾に依存していた。以下は、私塾、寺子屋。 |
現在の飯倉公園付近で、それまで幕府の武芸練習であった神田の講武所所属の空き地約9500uを幕府は安政6年(1859年)3月、外国人の旅宿所に指定し、8月に普請が出来あがった。これは、前年6月にアメリカとの修好通商条約調印を皮切りに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を締結したため、各国使節の宿舎が必要となったためである。周囲は黒板塀で囲まれ、黒塗りの表門を入ると、右手に大きな玄関があった。間口10間、奥行き20間の平屋建てでその中央のは長い廊下が設けられていた。万延元年7月23日(1860年)、修好通商条約締結のためプロシア全権公使オイレンブルグの一行はここに滞在し、その交渉の過程では、幕府側全権委員の堀 利煕が閣老との意見の相違から引責自殺し、また幕府の要請から条約協議に通訳として参加したアメリカ公使館書記官のヒュ−スケンが、接遇所からの帰途 中の橋付近で暗殺された。幕府の延引にあい3ヶ月の交渉が終わった12月18日、外国人に対する暴行、暗殺が頻繁に横行していた不安な情勢から使節一行はあわただしく江戸を離れ帰国の途についた。 |
明治10年9月2日、箱根塔の沢の旅館環翠楼で、脚気の湯治療養のために滞在していた一人の麻布市兵衛町に邸宅をかまえる女性が、心臓の発作でこの世を去った。女性の名は静寛院宮。元の名を和宮といった。享年32歳。和宮は弘化3年(1846年)潤5月10日に仁考天皇の皇女として母方の実家で権大納言の橋本実久の邸内で生まれた。が父仁考天皇は和宮か生まれる年の正月に崩御し、その後に兄の孝明天皇が即位した。誕生から七夜の潤5月16日に命名の儀が行われ孝明天皇より「和宮」という名を賜った。先例では、命名の後産後の忌開けを待って宮中に帰還されるのだが、宮中の都合からその後も外祖父の実久に養育され桂宮邸に移居するまでの14年間を過ごす事になる。嘉永4年(1851年)6歳を迎えた和宮に兄、孝明天皇の言いつけによりその時17歳の有栖川熾親王と結婚の内約を結んだ。そして安政6年(1859年)和宮が14歳になると来年、有栖川家に入輿することが決められ、その準備のため桂宮邸に移居し平穏な日々を送った。しかし万延元年(1860年)突如として幕府より将軍家茂の夫人に皇女を迎えようという動きが論議されるようになり当初、和宮の姉の敏宮、今上天皇の皇女、富貴宮そして和宮の名が噂されたがその年齢の近さ(家茂と和宮は同年同月生まれ。)などから次第に和宮の名が囁かれるようになった。そして幕府は4月1日、老中連署による奉書を所司代酒井忠義に送り、和宮降嫁の内請を関白九条尚忠に申し入れることを命じた。最初内奏をためらった九条尚忠も幕府からの度重なる催促により5月1日、孝明天皇に奏上した。天皇は不快に思いながらも、公武一和を目的としたこの縁組を拒絶した場合の影響を考え、苦慮した。しかし結局幕府の内願を謝絶することに決し、5月4日九条尚忠を通じて幕府に伝達した。この時謝絶の理由としてあげたのが、 |
麻布近辺には、軍関係の施設が比較的多くあった。これは海岸線が近かったためと、薩長閥の影響から(薩摩、長州ともに麻布近辺に屋敷があった。)?と思われる。飯倉片町に水交社、飯倉に海軍観象台(後の東京天文台)、赤羽橋の有馬藩邸跡に海軍造兵廠、竜土町の歩兵第三連隊、桧町の歩兵第一連隊、赤坂、青山辺の近衛歩兵第三連隊、歩兵第一旅団司令部、第二旅団司令部、近衛歩兵第四連隊、近衛歩兵第二旅団司令部、青山練兵場、海軍大学など枚挙に暇が無い。そして森元町近辺には、日清戦争時の連合艦隊司令長官「伊藤祐亨」、海軍卿の「川村純義」、陸軍出身の総理「小磯国昭」、真珠湾攻撃・ミッドウエ−海戦の指揮官「南雲忠一」などの将軍達が居住していた。 古代の麻布近辺では標高5メ-トル以下の土地は、東京湾の入り江であったと思われ、縄文時代には水辺の豊富な海産物が採集しやすい麻布の高台近辺に多くの遺跡、出土物が集中している。しかし弥生期や古墳時代の遺跡は少なく、これは麻布近辺が水田耕作に適さなかったためと思われる。以下はその主な遺跡。 |
幕末麻布近辺(芝、三田も含めて)は外国施設が多かった。これは後に「港区」と呼ばれるように、海が近かったため品川などに停泊している自国の船(軍艦など)に有事の際に移動するために便利であり、なおかつ江戸城にも程近かったためと思われる。現在も大使館などが数多く存在するが、震災、火事などの災害を考え、建物の密集した都心よりやや郊外のおもむきの残る麻布近辺が安全と考えたためとも思われる。以下は幕末における麻布近辺の外国施設。 |
寺社の多い麻布近辺は開帳、縁日がありその中で一番有名なのは、有馬の水天宮であったと思われる。明治になり水天宮が移転した後も各所で縁日は開かれた。私が子供の頃麻布十番では、5の日、9の日に開かれていて、9の日の縁日は細々と現在も行われている様だ。 |
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