むかし、むかし7
昭和の始め頃まで十番に住まいのあった林田家(今でもあるのかもしれないが未確認)は、徳川家康の六代前から松平家に仕え、家康の江戸入国に付き添って江戸に来た古い家柄である。家康の江戸入りした直後の江戸では、目障りになったり差し障りがある箇所を修繕取り除けする役であった。ある所で道がぬかるんで目障りであるとの命を受けて散々考えた挙句、道端に稗(ひえ)を蒔く事を思いつき、道端を青々と彩らせた。また江戸城の堀端の松の木も林田小右衛門が植えたものだと言われ、幕末まで林田家が代々無料で植栽管理を受け継いだ。また大奥の「御能」で使う松飾も林田家の仕事で、松飾の為に保土ヶ谷にそのためだけの松の植林を持っていた。だが、幕府からの禄は微禄で三人扶持でしかなかった。しかしこれは表向きで、その他諸家からの扶持が四百人扶持を下らなかったと言い、その生活は豪勢を極めた。 |
むかし3「錦絵新聞」でも取上げたが、再び明治時代の新聞から麻布近辺に関係した記事を御紹介。 |
江戸時代、明和の頃に下総古河(現茨城県)に次郎右衛門という大百姓があった。その一人息子の治郎吉は怜悧な子供であったが、年頃になると病気勝ちとなりついに労症(うつ病)となって毎日を鬱々と過ごしていた。両親や、はてには親戚までも心配して相談した結果、気分転換に家の出店もある江戸の橘町に住まわせてみる事になった。初めて暮らす江戸の街。まして両国や日本橋の盛り場にも近い橘町の店に腰を落ち着けた治郎吉は、次第に元気を取り戻し番頭に仕事は任せっきリで、やがて仲間と吉原通いが常となった。 |
天保六(1835)年七月二十七日、麻布桜田町に住む喜八は嫁の「あき」の実家である品川天妙国寺前の煙草屋「近江屋」に夫婦で訪れた。 夫婦で麻布から品川まで籠を連ねてやってきたその日の用件は、舅の藤兵衛に借金を申し込むためであった。夫婦は近江屋に着くと 挨拶もそぞろに早速借金の話しを切り出した。しかし、舅の藤兵衛はあまり話も聞かぬうちに乱暴に申し出を断ってしまった。
この天妙国寺は当時「妙国寺」と呼ばれた古刹で、墓所には麻布と縁が深い昭和初期のアイドル歌手「音丸」こと永井満津子が眠っている。 |
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「伊勢屋、稲荷に犬の糞」などと言われるほど江戸の街にはお稲荷さんが多かった。これは赤いのぼりや鳥居が派手で、景気がよさそうだったので江戸っ子の気性にあった為とも言われる。私が子供の頃の宮村町にも路地の奥にいくつものお稲荷さんがあったのを覚えている。(写真は宮村町本光寺脇路地にあったお稲荷さん。) |
稲荷つながりで、今回も「きつね」にまつわる話をご紹介。 |
文政の頃、寺に忍び込み、見ず知らずの墓石や石塔を勝手に磨いたり、洗ったりして廻ると言う何とも不可解な犯罪が続発した。 |
「耳袋」という江戸中期の書物の中に麻布近辺のネタを発見したので、要約をご紹介。 |
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7月3日のGuestBookでchacaさんに投稿して頂いた「猿助の塚」を探しに行ってみた。しかし、南麻布を2時間以上かけて探し、韓国大使館警備のお巡りさんをはじめ、10人以上の地元と思われる方々にも聞いたが結局見つける事が出来なかった。一旦ウェンディーズで作戦を建て直し、港区三田図書館に電話をして見た。電話で対応してくれた女性はとても親切な方で、探して折り返し携帯に電話を頂けるとの事。1時間ほどすると先ほどの女性がまわしてくれた「みなと図書館の郷土資料館」から電話があり、残念ながら資料が無くてわからないとの事だった。仕方が無いので7月23日のImokoさんの書き込みにあった「宮村公園のひまわり」を撮影しに行って帰ってきた。 |
最近の当ペ−ジ掲示板、Yahoo!麻布倶楽部でも掲載されている 「がま池消滅の危機」は、Kさんから存続は可能と情報を頂いた。 これは、はらきんの釣堀、ニッカ池に続いてまた一つ麻布の湧き水がなくなってしまうと思い込んでいたので、大変にうれしい情報であった。1月の半ばに港中学PTA関係者の方から廃校に伴う記念誌に当ペ−ジのがま池画像使用の問い合わせを頂いたばかりで池の消滅を聞いたので、何とも残念な気持ちでいっぱいだったが、きたしろさんの情報によると現在の池面積より20%ほど削られてしまうが、池自体は埋めないとの事である。早速重い体を引きずって久しぶりに近辺を訪れて見ると、周辺には工事反対の看板が林立している。そして、その中の一つに池の水を循環させるポンプの電源を云々というものがあり、あれ?と思った。子供のころの池には湧いた水を一定の水位で保つために下水道に水を逃がすための排水口(水門と呼んでいた。)にはいつもジャ−ジャ−と大量の水が流れ落ちていた。その水門の中は、水流に流されて落ちてしまったと思われるザリガニの宝庫であった。自宅に戻り調べてみると1991年10月30日の朝日新聞に「がま池アップアップ」と題した記事が掲載されていることがわかった。記事によると、港区防災課が1976年に確認されたがま池など港区内の湧水地27ヵ所の追跡調査を行ったとの事で、76年〜91年の15年間の変化が記載されている。内容は、91年の再調査で湧水が確認されたのは、麻布山善福寺の柳の井戸、三田の成覚寺、高輪東禅寺、白金自然教育園など12ヶ所だけであった。なんと15年で65%もの水源が枯れてしまったと言いその中には、三田の宝生院と共に残念ながらがま池の名も確認できる(有栖川公園池もポンプによって回遊)。枯渇の原因として同記事はビル建設などにより地下水を保つ樹林地が減少している、道路の舗装により雨水が地下に浸透せず下水道に流れてしまっているなどを挙げている。 |
今回は梅翁随筆という書物からのおはなし。 |
先日、長い間捜し求めていた本を通りすがりの本屋で発見することが出来た。本のタイトルは「六男二組の太平洋戦争」。著者は危機管理問題などでよくテレビで拝見する佐々淳行氏である。本の内容は氏が南山国民学校(南山小学校)に通っていた昭和10年代の南山やその周囲の様子と、氏が敬愛している担任教師伊藤信雄先生などが詳細に描かれている。その本を読んでゆく中で気になったのが、「東京初空襲」の記述である。要約すると、氏が6年生になったばかりの昭和17年(1942年)4月18日の昼頃「机の下に退避!」という先生の号令で防空頭巾をかぶって生徒たちは机の下にもぐりこんだ。生徒達にとっても初めての空襲であったが、緊張していたのは最初の数分だけで、あとは机の下で子供らしい無邪気な興奮を味わっていた様である。その中で鶴岡という少年は「B25は学校の真上を飛んでいったぞ。おれはこの目で見たぞ」という記述がある。何と東京を初空襲したドゥリットル隊は南山小学校の上空を通過していたという。 上記文章を書いたのは今からちょうど10年前の平成12(2000)年3/14であった。その後新たな資料が出版され、上記文章を覆す新しい事実が判明したので訂正・追記とさせて頂く。 と記述しており、六本木警察署屋上で迎撃射撃された(経路から芝浦ふ頭、済生会中央病院、南山小学校で目撃されたものと同一と思われる)敵機は友軍機の誤認であった可能性が高いとしている。 しかし、 「六男二組の太平洋戦争」文中の証言も小学生とはいえ「軍用機オタク」であったことから その信憑性も信じるにたるものと思われる。そしてネット上の書き込みにも芝浦ふ頭から超低空で内陸に向かう爆撃機の 目撃談が記されており、また、「ドーリットル 空襲秘録」文中では麻布通過を否定し友軍機の見誤り?としているが巻頭に掲載されている爆撃直後、帰還した搭乗員の証言を 元に米陸軍省が作成した飛行経路図には5番機・ジョ−ンズ中尉機(機体番号:#40-2283)が目撃証言と酷似した飛行経路で記載されている。 また、一方では同書68ページには房総半島から東京湾を北上し川崎上空に至る筆者が想定したと思われる飛行経路が記載されているが、巻頭の米陸軍省が帰還後の搭乗員からの 証言を元に作成した飛行経路図には明らかに5番機が東京湾芝浦方面から西の渋谷方面に港区上空を飛行した経路が記載されているのに本文ではこちらを参照していない。 こ5番機の飛行経路の違いについての記述は同書には見あたらないが、実際に芝が爆撃されていないことから導き出された結果なのかも知れない。 また別途米陸軍省作成経路図には港区西部か渋谷区東部と思われる区域を別の1機(7番機[#40-2261]と思われる機体)が通過していることが記されているが、こちらも本文の飛行経路とは異なっている。 そして、この7番機と思われる機体の飛行経路は麻布上空を飛んでいたとしても北から南への経路となり複数の目撃情報とは合致しない。 DEEP AZABUが妄想に近い飛行経路を推測すると、麻布上空を飛んだ機体は5番機であった。予定通り東京湾から芝浦ふ頭上空に侵入した5番機は第一目標であるターゲットNo.326日本電気、No.327三菱内燃機(三菱重工)、No.354芝浦製作所の確認に手間取り、内陸部へと 入り込んでしまった。このため機長のジョ−ンズ中尉は機を反転させて東へ向い東京湾から再度爆撃コースに入ることを考えた。しかし一度目の通過で機の高度や速度が高射砲陣地に 補足されている可能性が高かったため、機長は第一爆撃目標への攻撃を諦め、南へと進路を取りあらかじめ設定されていた第2爆撃目標である川崎へと機を進めた。となるであろうか。 この爆撃目標を特定できなかった原因の一つには、この空襲で爆撃隊が使用していた地図が大正期のものであるといわれており建物の概要や所在が大きく変化していたため(目標No.327は地図上では 三菱内燃機だったが実際には三菱重工となっていた)であると考えられる。
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藩祖、山内一豊が関ヶ原の戦功で、遠江掛川六万石から土佐一国二十四万二千石を得て成立した土佐藩には、本家の他に「南邸山内氏」、 「本町山内氏」、「中村山内氏」などの分家(中村山内家は幕府非公認の支藩)があったが、その中で中村山内家の三代山内忠直の 二男山内豊明(大膳亮)は元禄二年(1689年)本来外様大名ではあり得ない「若年寄」まで昇進し、さらに後将軍綱吉は慣例を破って 老中にまで抜擢しようとしたが、豊明が病気を理由に辞退したので、綱吉は大いに怒り、若年寄職を罷免して中村三万石の領地まで 没収してしまい、中村三万石は廃藩となった。 |
今回は明治8年12月7日付の読売新聞から「大食いの幽霊」をご紹介。 |
このタイトルを見て何の事かわかった方は相当な天文ファンと言うことなのでしょうが、なんと、「麻布」の名前が太陽系の小惑星に付いていました。小惑星AZABUは太陽から3.97天文単位(1天文単位=太陽⇔地球間の平均距離=約 1億4960万km)の場所を7.9年の周期で回っていて、その大きさは約28kmとの事。発見は1973年 9月19日 。発見者はVan Houtenn氏。場所はPalomer天文台。 命名者は元国立天文台助教授、現在は鳥取県八頭郡佐治村にある佐治天文台長の香西洋樹氏。しかし天文素人の私には、「発見者」と「命名者」の違いなどわからない事だらけであったので、早速香西先生に問い合わせたところ、非常に親切なお返事を頂戴した。 |
Special Thanksの鬼平犯科帳で、麻布がタイトルになっている3編を書いたが、改めて読み直してみると3編以外にも麻布が登場する場面の多いことに気が付いたのでご紹介。 |
なお4月17日より放送されている第9版の1回目は「大川の隠居」であったが次回以降は、
2回 4/24 一寸の虫
3回 5/1 男の隠れ家
4回 5/15 一本饂飩
5回 5/22 闇の果て
との事。
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