むかし、むかし9
今回もまた「耳袋」からで、前回と違い「世智辛い」内容のお話。現題の「山事の手段は人の非に乗ずる事」とは、「詐欺は人の弱みに付け込むもの」とでもいうんでしょうか?その話とは........。
最近あった事で、上総あたりのお寺の住職が寺の用事で江戸に出た。しかしその住職は破戒僧で、新吉原に入り込み、遊女遊びで持ってきた寺の公金を使い果たしてしまった。仕方なく一旦上総に戻り、金策のために偽り事を言って檀家から金を集め、寺の什器なども質に入れてなんとか300両をつくり、再び江戸に出た。しかし江戸に入ると、この悪僧は懲りずに再び遊女遊びでその金を使い果たしてしまった。さすがの悪僧も今度ばかりは上総に戻る事も出来ず、仕方なく残った金で馬道辺に借家を借り、散々入れ揚げた遊女を身請けして妻にした。
そうして1ヶ月ほど暮した僧だがある日、町内の若者連中の伊勢講仲間から伊勢参りの誘いをうけた。すると、僧は色々と理由を造ってこの話を断った。しかし、若者連中の執拗な誘いから最後には路銀も受け取り、とうとう伊勢参りを引き受けてしまった。そして家に帰ると僧は妻に、断りきれずに伊勢参りを引き受けたことを語った。すると妻は
「それならば、仕方ないのであとの事は私に任せて、行ってらっしゃい」
と答えた。そして数日後、僧は留守中のことをくれぐれも頼み込んで、伊勢へと旅立った...........。
しばらくして、伊勢参りを終えた僧が久しぶりにわが家に戻ってみると、なんと、住んでいた家には空家の札が貼られ、妻も行方知れずになっていた。驚いた僧は、
「どうした事か!」
と家主に尋ねたが、家主も驚きこう語った。
「奥さんから、あなたが行方不明になったと聞いたので、奉行所にも届け、保証人に家財と奥さんを引き取ってもらった。」
これを聞いた僧は、はじめから妻には男がいたのだと悟り、その自分の知らなかった保証人を怒って訪ねた。しかし、そこもすでに引き払われていた。
途方にくれた僧は、はじめて自分が空腹である事に気づき、田町(北馬道町)の正直蕎麦に入り蕎麦をすすりながら、 もともと脛に傷を持つ身であり、こうなったら川に飛び込むしかないなどと、考えていた。すると、先ほどからそんな僧の様子を見ながら蕎麦をすすっていた医者の姿をした男が、蕎麦屋の下女を呼んで「あの男は死相が現れている」と言った。すると下女はこんな所で死なれては商売のじゃまと、僧に向かって
「お客さん、顔色が悪いよ。あちらの方が、あなたに死相が出ているって言ってるし、早く帰って養生した方が良いよ。」
と言うとズボシをさされた僧は大変に驚き、医者の姿をした男に自分は確かに死のうと思っていたと告げた。すると医者の姿をした男は
「一度捨てた命を、拾って生きるつもりはあるか」
と言うので、僧は「捨てたつもりの命です。生きて何でもします。」と答えた。すると医者風の男は
「それならば、私について来なさい」
と言い、並木通り(雷門)にある自分の家に僧を連れ帰り、下男のように使った。そしてしばらくしたある日、医者風の男は僧に、まだ奥さんを探したいかと訊ね、僧がうなずくと、それならば良い考えがあると、「飴売り」になって念仏を唱えながら江戸市中を歩けば、きっと見つかると言った。それから僧は言われたとおり、浅黄頭巾に伊達羽織を着て念仏を唱えながら飴を売り歩いた。しばらくたったある日、麻布六本木で飴を売りに歩いていると、なんと元の妻が向かいの酒屋から出てきて、他の家に入り、また酒屋へ戻るところを見つけた。喜んだ僧はそのまま大急ぎで医者風の男の家に帰り、そのことを話した。すると医者風の男は
「それでは、女房殿を取り返そう」
と言った。10日ほどすると医者風の男は、「今日、取り返そう」と言い、僧を伴って麹町辺を取り仕切る地元の親分を訪ね、ひそひそと相談を始めた。そしてしばらくすると「大方の相談は終わった。あんたは今から女房を見た酒屋へ乗り込みなさい」と親分は僧に言った。
医者風の男は親分に丁寧に礼を述べると、その足で麻布六本木に行きの例の酒屋の近くの家の軒先に僧を残して、少しここで待つよう、そして呼んだらすぐに来るように伝えると、酒屋に入っていった。そして店に入ると
「酒の小売りはしているか。少し飲ませてはくれないか」
と言うと
「うちじゃ小売りはしてないません」
と言われた。しかし医者風の男はそっと店の者に銀一枚を与えたところ、酒が出され、女房らしき女が現れて酌をはじめた。そこで医者風の男はその女房に
「奥さんに会わせたい男がいます」
と言うと僧を呼んだ。すると、僧の顔を見た女房は驚いてその場を立とうとしたが、すかさず袖を押さえた。医者風の男は
「この女に間違いないか?」
と問うと、僧は
「間違いございません」
と言ったので女房は顔を真っ赤にして奥へ引っ込んだ。そして医者風の男は酒屋の主人を呼ぶと、今までの女房との話を悟られないようにと、酒の礼を丁寧に述べて店を辞した。それから二、三日が過ぎた頃、麹町の親分が子分を数人連れて医者風の男の家に現れ、
「六本木の酒屋を脅して、100両ほど都合させた」
と言い医者風の男にその100両を渡した。すると医者風の男は親分に
「これは仕事料だ」
と、二十両を差し出した。それから医者風の男は旦那寺の僧を呼んで終日、ご馳走を振る舞った。そして僧がこの上何をするのだろうと考えていると、酒も済んだ頃、僧はその旦那寺の僧に引き合わされた。そして医者風の男は旦那寺の僧に
「この男は一度はこういう理由で死のうとしていたところを私が助けた。そしてこのたび、貴僧の弟子として再度出家させたいので、今日剃髪なさってください」
と言い、あれよあれよと言う間に湯や剃刀を用意した。するとそれを聞いた僧はたいそう驚き、 「ちょっと待ってください。私は一度還俗した身です。また出家できるはずがありません。女房も取り返していないのに、なぜまた出家しろなどと仰るのですか」と言うと、医者風の男は、
「だからこそ、あなたが勝手に還俗し、在家を欺いた罪は免れようがない。本来死ぬはずだったところを生きているのだ。これを幸運だと思いなさい。そしてまた出家すれば、少しは罪が軽くなるはずだ」
と、無理矢理出家させてしまった。さらに医者風の男は僧に、
「今度の事で、あなたの女房を奪った男から迷惑料として金を出させたが、これは、色々骨折りを頂いたの方々への御礼にした。そしてあなたの出家や、今までの罪滅ぼしの供養料でお寺にも20両差出た。また、あなたにも10両を渡すので、出家の費用としなさい。残りは、これまでかかった経費だ。」
と言って自分の懐に入れてしまった。
作者は、この医者は恐ろしく悪知恵が働く男で、ふたたび出家した僧は、今は花川戸あたりで托鉢をしている。と書き残して終わっている。
これまで数度に渡り「耳袋」の中から麻布にまつわる逸話をご紹介してきたが、前回以降にわかった事をお知らせ。
「耳袋」は現代的な表現で本来は「耳嚢」と書き、「みみぶくろ」と読むのか、あるいは「じのう」なのかわかっていない。しかし嚢(のう)は袋の意味で用いられ、根岸鎮衛が30年間に聞いた話1,000話を溜め込んだ袋と解釈すれば、どちらもほぼ同義といえる。またこの本は本来公表されるつもりで書かれたものでは無く、作者根岸鎮衛も門外不出としていた。しかし、作者生存中にも原本を転写した海賊版が市中に出回り、町奉行であった筆者が摺り本を没収している。しかし作者死後には再び縁故などを利用して転写する者が出て、再び世に出てしまい色々な形態の写本が登場した。そのため現存する写本においても話の順序はさまざまだという。また根岸家に伝わった原本は、門外不出であったためか、現在まで発見されていなく、写本も1,000話すべてが揃ったものは無いとされている(UCLAで発見された写本は全巻・全話揃っているといわれるが、未出版のため確認できない。)ので、耳袋からの逸話は今回で終了とする。
しかし、いつか完本を目にする事が出来た時は、麻布もその中にたくさん眠っていると思われるので続編として再開します。 これまでむかしむかしで取り上げなかった話も含めて、目次として以下の表にまとめ、最後とします。
巻 題名 場所 内容 1 禅気狂歌の事 芝辺 禅好きな商人と僧の問答 山事の手段は人の非に乗ずる事 麻布・六本木 人の弱みにつけこむ詐欺師 河童の事 仙台河岸(汐留) 河童を捕獲・保存 旧室風狂の事 麻布あたり 奇人の奇行 2 狂歌にて咎めをまぬがれし事 高輪あたり 一富士二鷹..のいわれ 忠死帰するが如き事 高輪細川邸 大石内蔵助の最後 3 精心にて出世をなせし事 赤羽橋・久留米藩邸 不器用な男の出世 鈴森八幡烏石の事 麻布・古川町 烏(鷹)石の由来と松下君岳 町家の者その利を求むる工夫の事 日本橋 松下君岳のその後 4 蝦蟇の怪の事 芝・西久保 老蝦蟇の妖術 陰徳陽報疑いなき事 青山・権田原 親切が加増につながる 実情忠臣危難をまぬがるる事 麻布・市兵衛町 忠臣の恩返し 怪妊の事 麻布辺 武家子女の怪妊 増上寺僧正和歌の事 芝・増上寺 増上寺僧正の詠んだ和歌 5 蘇生の人の事 芝あたり 一度死んで蘇生した町人 6 奇石鳴動の事 芝・愛宕 浅野内匠頭切腹の目印石が鳴動 至誠神のごとしといえる事 赤羽橋・久留米藩邸 槍術精進の結果 幻僧奇薬を教うる事 くらやみ坂 中気を治した小児薬・くらやみ坂が麻布かは、不明 好む所によってその芸も成就する事 麻布・宮村町 将棋の妙手大橋宗英逸話 7 唐人医大原五雲子の事 三田大乗寺・広尾祥雲寺 大原五雲子の墓 その素性自然に玉光ある事 芝・切通し 正直者の娼婦 仁にして禍を遁れし事 芝辺 火事の機転 8 奇なる癖ある人の事 広尾祥雲寺 他人の墓磨きが趣味の旗本 9 上杉家あき長屋怪異の事 麻布台 上杉家長屋に異変がおこる 悪気を追う事 芝・芝口 不動参りの者についた悪気 蘇生せし老人の事 赤坂・裏伝馬町 生き返った老人 10 幽魂奇談の事 麻布・永坂町 扇箱の秘密 非情といえども松樹不思議の事 芝・増上寺 芝大火後の不思議 神明の利益人をもってそのしるしある事 芝・神明 芝明神境内の鶏を奪った者の話
前回で終了したはずの「耳袋」から、以前紹介した鷹石の補足的な記事のご紹介。
松下君岳(1699-1779)は書家で本名は葛山辰・曇一、号を烏石といった。家は下級の幕臣であったが、君岳はその次男で幼い頃より手跡に精進して、儒学を服部南郭に,書を佐々木文山,細井広沢に師事し唐様書家として名を上げた。君岳は麻布古川町に住んでいたため、以前からこの地で有名だった「鷹石」を整えて「烏石」と変名し、自らの号とした。そして君岳は赤羽橋に転居のさい、「烏石」も移動し、さらに鈴森八幡に奉納した。
第26代江戸南町奉行であった根岸鎮衛が表した「耳袋」巻の三には、「鈴森八幡烏石の事」と題して「鷹石」を紹介しているが文中では、
「〜烏石生まれ得て事を好むの人なりしが、鷹石として麻布古川町に久しくありし石をととのえて、己が名を弘めん尊くせん為、鈴ヶ森へ、同志の、事を好む人と示し合わせて立碑なしけるなり。からす石という事を知りて鷹石の事を知らず。右鷹石は山崎与次といえる町人の数奇屋庭にありし石のよしなり〜」と、「烏石」と変名させた松下君岳についてはその売名行為を痛烈に批評している。これは警察官僚・民生官である根岸鎮衛が、書家としては一流とみなされていたが、放蕩無頼な山師、犯罪者という一面をも持つ松下君岳を知っていたためで、その根拠となる事件は、宝暦11年(1761)親鸞の五百回忌が京都の西本願寺でとりおこなわれた際におこった。
京都に居を移し、どうした手づるからか西本願寺門跡の師匠格なっていた松下君岳は、西本願寺関係者が五百回忌を期に親鸞に大師号が授かるように朝廷に働きかけているが、朝廷、幕府双方から拒絶されて頓挫しているのを知り、不良公家衆とはかって金を出せば事が円滑に運ぶと檀家、関係者を説いて回り、その金を着服した。ことはすぐに発覚して同罪の不良公家衆は蟄居させられた。しかし君岳の罪について記された物が見つからないところを見ると、どうにかして言い遁れたのかも知れない。再び江戸に戻った君岳について、根岸鎮衛はもう一つの逸話として「町屋の者その利を求むる工夫の事」を残している。江戸に戻った君岳は日本橋二丁目にある本屋「須原屋」に100両を借り受けた。しかし君岳には返済の当てなど無い事を見抜いていた須原屋が、君岳の住まいをたづねて書を没収し、100両以上の利益を得たという話で、いかに君岳が信用されていなかったかが、うかがえる。
半七捕物帳シリーズで有名な作家岡本綺堂は、1872年(明治5年)10月15日、高輪北町で生まれた。これは父岡本きよしが旧御家人で後に当時高輪東禅寺にあったイギリス公使館で書記官を務めたためで、公使館が五番町に移転するまでの3年間を高輪北町で過ごした。その後岡本家は麹町に居を構え綺堂もその生涯のほとんどを麹町界隈で過ごしたが、綺堂51歳の1923年(大正12年)9月1日におきた関東大震災により岡本家も延焼し、家財蔵書など全焼してしまう。そして9月2日には目白・高田町の弟子、額田六福(ぬかだろっぷく)方に避難し仮住まいをするが、知人の紹介で10月12日、麻布宮村町10番地光隆寺前の借家に移転する。この日の引越しの様子を綺堂は、
〜くもりと細雨のなか、9時頃から馬車で荷物の積み出し、綺堂、細君、おふみさんらは電車を乗り継いで、宮村十番地の借家へ(港区元麻布3丁目9番地)。正午に荷馬車到着。光隆寺という赤い門の寺の筋向いで、庭は高い崖に面している。〜
と記している。
綺堂は後にこの宮村町での生活を「綺堂むかし語り」という随筆の中の「十番雑記」「風呂を買うまで」などで語っていて借家の様子を、
〜家は日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。〜 裏は高い崖(がけ)になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押し寄せていた。〜 元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。襖(ふすま)も傷(いた)んでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。〜と記し、十番商店街については、震災を免れて繁盛している様子を、
〜十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面の泥濘(ぬかるみ)で、ほとんど足の踏みどころもないと云ってよい。その泥濘のなかにも露店が出る〜ここらの繁昌と混雑はひと通りでない。余り広くもない往来の両側に、居付きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列(なら)んでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢(ひ)かれるか、路ばたの大溝(おおどぶ)へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。「震災を無事にのがれた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意している。〜また近所の坂を詠んでいる。
狸坂くらやみ坂や秋の暮
〜わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推し量られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名がいっそう幽暗の感を深うしたのであった。 坂の名ばかりでなく、土地の売り物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬきと云うのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかし狐や狸の巣窟(そうくつ)であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とか云わなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所無し」が、今の場合まったく痛切に感じられた。〜また末広座が明治座と改称して左団次一座の公演に向けて震災で傷んだ建物の改修工事を行っている様子や、綺堂自作の信長記、鳥辺山心中、番町皿屋敷を妻らと観劇し、末広座から通りをはさんだ福槌亭にも妻らが足を運んだことが記されている。
そして風呂好きであった綺堂は近くの越の湯と日の出湯に通っており、冬至のゆず湯の風景が描写されている。
宿無しも今日はゆず湯の男哉
そして大正13年の正月を迎えた綺堂は、1月15日にあった「かなり大きな余震」により9月1日の大震災ですでに傷んでいた宮村町の借家がより大きく傷んでしまったので、家主の建て直しの意向もあって引越しを決意せざるをえなくなり、その年の3月19日に大久保百人町へと再び転居した。綺堂わずか5ヶ月間の麻布住いとなった。
岡本綺堂の著書「風俗江戸物語」〜江戸の化け物にある話で、綺堂の父が実際に聞いた話であり、江戸の代表的怪談の第一としてとりあげている麻布六本木・内藤紀伊守の下屋敷で起きたといわれる事件をご紹介。
江戸の頃麻布三河台町にあった日向延岡藩7万石・内藤紀伊守の下屋敷で(龍土町と綺堂は書いているが、近代沿革図集によると三河台町で旧三河台中学あたり)、ある夜何処からともなく蛙がたくさん出てきて寝所の蚊帳の上に乗り寝ていた女達を驚かせ、そして次に屋敷が大きく揺れて大騒ぎとなった。下屋敷には女子供が多く、怯えきってしまったので、異変を聞いた上屋敷から藩士達が駆けつけて原因を調べたが判らず、藩士が不寝番をして様子を見る事となった。そして夜がふけた頃、不寝番がついうたた寝を始めると今度はどこからともなく石が落ちてきた。これは狐狸の仕業とある藩士が鉄砲を取りに行こうとすると、再び落ちてきた石が眉間にあたり倒れてしまった。次に他の藩士が行こうとすると今度は頭に石が当ったので、それを見た他の者が石の落ちてくる天井を見上げたとたんに畳から火の手が上がったので皆居すくんでしまった。こんな事が3月ほど続いて調べていると、出入りの者と密通している池袋から来た女中があったので即座に解雇すると、それきり何も起こらなくなったという。
いまでは大変な差別だが、江戸時代頃には池袋生まれの女性を女中などとして使っていて、その女性の身に間違いが起こるとその雇い主の家に異変が起こるので、武家の屋敷などでは絶対に雇わなかったという。また商家でも雇うのをためらう所が多かったので「池袋の女性」は生まれを板橋、雑司ヶ谷などと偽って奉公しなければならなかったといい、これは池袋の女が七面様の氏子であるための祟りだという。また同様の話として「耳袋」では池尻生まれの女性についての異変話もありいづれも同地生まれの女性にとって迷惑な迷信であったと思われる。
綺堂はこの江戸の化け物で他に、「不忍池の大蛇」「牛込の朝顔屋敷」「河童」などと供に「がま池」の由来も紹介している。
今回は明治12年(1879年)4月25日付けの東京曙新聞に掲載された麻布で起こった不思議な事件をご紹介。
掲載される2〜3日前の雨の夜遅く、麻布飯倉町30番地にある人力車の車夫を生業とする亥之吉の家の門を叩く者があった。その者は門をたたきながら狸穴まで大急ぎでお願いしたいと女性の声で言った。しかし亥之吉は雨が降っているし、夜も遅いのでもうお終いにしましたと伝えたが、「車代は幾らでもお望み通り払うから、行って欲しい」と言われ欲が出た亥之吉が雨戸を開けて客を確かめてみると17、8の美人であった。大急ぎで仕度を整えその女性を乗せ、これはきっと色恋沙汰で男の跡でも追いかけていくのだろうと考えながら狸穴坂の下まで行くと「この辺で結構です」と言われたので車にかけてあった雨覆いを上げてみると、どうしたことか人力車は空っぽでびっくりした亥之吉は腰を抜かしてしまった。そしてしばらくすると狐狸の仕業と気がついて、仕方なしに家に戻ろうと車を引き始めたが、不思議な事に同じ場所を何度も廻ってさまよってしまった。そして夜が白々と明けてきてようやく薄明かりで家にたどり着いた亥之吉だが、その日は気が抜けたようになり商売に出る事が出来なかったという。新聞は「全く物の怪に魅せられたのかまたは寝ぼけて惑乱したのか、怪しいことだが嘘ではない。」と結んでいる。
1967年(昭和42年)から大衆文芸誌に連載された六本木随筆は作家村上元三が自宅のある六本木付近の変遷を書いた随筆である。文中では麻布近辺についても「麻布七不思議」、「鳥居坂について」、「麻布十番」などが掲載されていて、その中で「蝦蟇池」と題した項が昭和47年5月に書かれているのを見つけた。
この随筆が書かれた当時、がま池は池を削ってマンションを建てる問題が新聞に掲載されていた時期であったようで、随筆はその反対運動の新聞記事を追っている。そして、その経過は現在の池を巡る状況と酷似している。作者はその新聞記事からとして保存運動を行ったのが日本人よりも付近に昔からある大使公使館員、駐日新聞記者、商社 らの外国人であると述べている。
1972年(昭和47年)3月4日付毎日新聞朝刊の社会面「問いかける群像」の中で、
「ガマ池が消える、伝承の地にも破壊の波、怒った、立った外人が...」
と題した記事が掲載されていて、池の伝説の紹介や、がま池以外の多くの旧跡名所跡がすでに破壊されている事を伝え、さらに当時池の保存運動を行ってったのがドイツ大使館一等書記官、タイム・ライフ東京総局長、フランクフルター・アルゲマイネ新聞極東特派員、海運会社社長夫人、ボウリング会社日本代表などの外国人らであったことを伝えている。活動は近隣住民への回覧板の巡回、池の歴史的研究、署名運動を行った。そして当時の環境庁長官、東京都知事への陳情も行い、外国人側の呼びかけにより地元の有志もこれとは別に3,800人の署名を集め、港区議会へ「がま池保存の請願書」を提出した。そして請願は区議会により全会派の賛成で採択され、区や都、環境庁も「善処」「検討」を約束した。これにより外国人保存運動家たちも安堵し、「がま池はたぶん助かる」と思い込んだ。しかし、当時の区長は自身ががま池で遊んだ体験を語りながらも財源不足を理由に都、国が用地買取を行って欲しいというお気楽な責任転換でその場をやりすごし、都は港区が将来公園化するのであれば先行取得も可能だが、区はその気が無いようだ。とし、環境庁は所管外でどうにも出来ない都に善処してもらいたい。とたらいまわしとなったあげく、当時のガマ池所有者は都、区が買い上げてくれるなら手放すが、生活権上(マンションを)建てざるをえない。としてると記述されている。記事はここで終わっているが、結果的にはマンションは建設され、がま池が縮小されたのは周知のことである。この記事で文中で外国人保存運動家たちが言ったとされる言葉が非常に興味深く、現在の状況にもそのまま当てはまるのでご紹介。
「もう10年もすると、東京には先祖からうけついだもので、子孫に語りつぐべきものがなにもなくなってしまうのではないか」
この記事からちょうど30年後の現在、同じ池で同じ問題が起こり、同じ過程を踏んできた保存運動はどのような結末に向かっているのでしょうか?
表題の六本木随筆は「蝦蟇池」の項を新聞記事を元に書いているため、元ネタの記事の内容ばかりとなったが随筆の著者は最後に、
「ここ十年ほどで、東京の人間は川や池が次第になくなってしまうのを、そう気にしないように、慣れさせられている。〜中略〜古いものが失われて行くのを、書きとめておく気持ちはありながら、抵抗をする気力もないのは、東京に住んでいる人間のあきらめのようなものであろうか。」と自嘲気味に記している。
1972年の主な出来事
- (政治・事件)
- ・ニクソン米大統領訪中、日中国交正常化
- ・札幌冬季オリンピック
- ・沖縄返還
- ・元日本兵横井さん帰還
- ・あさま山荘事件
- ・テルアビブ乱射事件
- ・作家川端康成自殺
- (社会)
- ・ロマンポルノが映画界に新風
- ・山陽新幹線開業
- ・上野動物園パンダ初公開
- ・オセロゲーム発売
- (話題の商品)
- ・カシオミニ(電卓)
- ・ソックタッチ
- ・消える魔球付き野球盤
- ・オロナインH軟膏
- ・仮面ライダーカード
- (音楽)
- ・レコード大賞 ちあきなおみ−喝采
- (ヒット曲)
- ・女のみち ぴんからトリオ
- ・せんせい 森昌子
- ・旅の宿 吉田拓郎
- ・どうにもとまらない 山本リンダ
- ・ひなげしの花 アグネス・チャン
- ・男の子女の子 郷ひろみ
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1999年の夏に麻布でサルが逃げ回っていたのは記憶に新しいが、それ以前にも明治時代の竹谷町で起きた猿騒動、大正時代ころまで実際に住んでいたといわれる狸坂のたぬきなど麻布と動物は縁が深い。今回はそんな麻布にキツネがでたというお話。1966年(昭和41年)1月29日付朝日新聞朝刊に「"化けそこねた"泥棒キツネ〜麻布で野犬捕獲器にかかる」と題した記事が掲載されている。
記事によると麻布宮村町72番地(旧麻布保健所近辺)専売公社宮村寮近辺で、前年の夏ころから頻繁に各家庭で飼っていたニワトリが襲わるようになった。寮の被害はシャモ5羽、またある家では十数羽全滅と襲われ続け、ついに近隣住民より麻布保健所に捕獲が依頼された。当初野犬の仕業だと思った保健所は牛肉をぶら下げた捕獲器を設置したが、なにもかからず捕獲に失敗した。そして事件ははこのまま迷宮入りかと思われたころ、近所の子供が「キツネを見た」と言い出した。だが周囲の大人たちはいくら何でも、こんな都会の真ん中でキツネなどいるはずがないとまるで信じようとしなかった。しかし保健所の技師の一人が「襲い方が犬とは違う」、「ニワトリばかりが狙われる」「骨まできれいに食べられている」と野犬説に疑問をいだき、生の鶏肉を捕獲器にセットしてある日の夕方裏の斜面に仕掛けた。すると早速、その日の夜8時ころに捕獲器に捕らえられ大暴れしている生き物を発見した。そして技師が近寄ってみるとそこには体長1.5メートルほどのキツネが捕獲されていた。
当時小学校2年生であった私はこの寮のすぐそばに友人が住んでおり、頻繁に家にもお邪魔していたがこの事件のことはまったく記憶にない。そして私にとってはキツネがいたということよりも、宮村町の中でも割と高級な住宅街でその餌となったニワトリの飼育をしている家が多かったと言うことのほうに驚く。(私も丁度この頃小学校の前で買ったヒヨコを育てていて、中学生になるまで飼育していましたが)
記事を読んで、このあたりは狐坂からもそう離れていないので、もしかしたら昔から住み続けていたキツネかと一瞬思ったが、残念ながら記事には「捕獲されたキツネは首輪をしている」とあり、どこかで飼われていたペットのキツネであることが記されている。そして記事は最後に「捕獲したキツネは動物園に寄贈したい」と締めくくっており、この事件をまったく知らずにいた私も、遠足で上野か多摩の動物園に行った際、出会っていたのかもしれない。
そして麻布ではこの事件の後も、1977年7月には今度は南麻布5丁目近辺(有栖川公園付近)でペットのオオヤマネコが脱走し、パトカーが付近の住民に外出を控えるように訴えたと言う記事が掲載されている。
麻布区史桜田町の項(806p)に「櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛」とある。これは昔から良くあるの言い回しの一つで、分不相応な持ち物を揶揄していった言葉、またはそれを羨んでいった言葉であるが、一つ目の「火ノ見半鐘」とは、「火の見やぐら」にかかっている火事になると打ち鳴らす半鐘である。「文政のまちのようす・江戸町方書上(三)麻布編」麻布桜田町の項(401p)には、
自身番屋前に梯子火の見建て置き、半鐘の儀は宝永二年(1705年)二世案楽のためと彫り付け有り、右梯子火の見建て始め、願い済み年代相知れ申さず候
とあり、火の見やぐら創建の詳細は江戸町方書上が書かれた文政年間(1818〜1829年)の当時から不明となっていたようである。
しかし、「過ぎたるもの」とまでうたわれたのは、 町域のほとんどが高台の尾根づたいであった桜田町にある「火の見やぐら」の半鐘は、他の谷底の町々に比べてはるかに見通しが良く、遠くまで響きひときわ目だった音で、人々から羨望されたためだと思われる。
桜田町(材木町交差点付近)の標高は31.09mで、六本木交差点・旧防衛庁前(30.00m)、本村町(28.00m)、一本松(23.78m)、北条坂上(28.27m)、鳥居坂上(26.00m)など比較的海抜の高い他の地域に比べても最標高である。ちなみに低地だと中の橋商店街入り口付近(4.87m)、十番通り付近(6〜7m)、二の橋付近(5〜6m)と桜田町とは20メートル以上の標高差があり、高台の桜田町のさらに高い火の見やぐらの上から打ち鳴らす半鐘が遠くまで鳴り響き、有名になったのもうなずける話である。以前、むかしむかし2-28でお伝えした三田にある久留米藩有馬家上屋敷の火の見やぐらは、
三田台地に高さ三丈(9.09m)の火の見櫓を組んだ。
他家のものは二丈五尺(7.5m)以内であったため日本一と称され、
「湯も水も火の見も有馬名が高し」
「火の見より今は名高き尼御前」などと詠まれた。
とお伝えした。しかし、この有馬家のやぐら自身の高さは日本一かもしれないが、藩邸内最標高(15〜20mくらい)に建っていて、やぐらが9mあったとしても標高29mで、 桜田町のやぐらは標高31m+やぐらが5m(と仮定しても)=標高36mとなり、標高も加味すると文句なしにこちらのほうが高い。
ちなみに現在の「港区最高地」は、赤坂台地の北青山3丁目3番で標高34m、最低地はJR浜松町駅前付近で標高0.08mとのことで、桜田町は残念ながら僅差で「旧麻布区」としての最高地となる。
最後に「〜に過ぎたるものが」という言い回しの中で比較的良く耳にするものを下記にご紹介。
「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」
「三成に過ぎたるものが二つあり島の左近と佐和山の城」
「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」
「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」
二つめの「箕輪の重兵衛」は次回.......。
<桜田町関連記事>
018.桜田神社
060.沖田総司(その1)
099.鈴ヶ森の殺人
104.尺八殺人
118.大食いの幽霊
前回に引き続き「櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛」の後半、箕輪の重兵衛を調べた。そもそも桜田町は麻布区史、文政町方書上などによると源頼朝が奥州征伐に向かう折に霞山稲荷(現櫻田神社で元は霞ヶ関あたりにあった)に立ち寄り植えた桜の木があったあたりを神領として寄進ことから起こった名といわれる。しかしその後の江戸の拡張整備に伴う大名屋敷(上杉家上屋敷といわれる)の建設により百姓衆は霞ヶ関近辺から、
慶長7年(1602年)−溜池坂上に移動、その直後再び溜池坂下に移動。しかしすぐに御用地となり屋敷と共存する。
元和元年(1615年)−再び溜池坂上に移動。しかしそこも御用地となる。
寛永元年(1624年)−麻布の原の4丁2反7畝4歩に替地として居住を許され麻布新宿と唱える。
とあり、膨張により田畑から大名屋敷に変遷しゆく江戸市街化計画の生き証人とも言える移動を余儀なくされた。特に元和元年には度重なる替地に業を煮やした百姓衆が土井大炊頭・長井信濃頭・井上主計正など幕府要人に駕籠訴を行い、その結果として寛永元年に願いが聞き届けられたといわれる。
その後正徳3年(1713年)それまでの代官支配から他の麻布の村々と同様に町奉行支配下となり、江戸市中となるがその移住者のほとんどが百姓衆であるために麻布百姓町とも言われる。
さて本題の箕輪重兵衛であるが、麻布区史、文政町方書上などによると、代々重兵衛を名乗る桜田町の名主でありその先祖は甲州浪人と言われ、 主家武田家の滅亡後に櫻田郷(霞ヶ関)で帰農したものと思われる。その箕輪家の中興といわれる箕輪豊前はやはり櫻田郷の名主を務めたが天正年間に病死し、 惣領の箕輪伊予が家を継いで名主となった。しかし伊予も30歳の若さで病死してしまい子供も無かったので、それまで蒲生中務に仕えていた次男の七兵衛が蒲生家を 辞して帰農し箕輪の家督を継いだ。そして、この七兵衛は兄と同名の「伊予」と名を改め、奥州の陣(関が原の戦い)、大阪夏の陣などに人馬を差し出し徳川家に貢献した。 特に大阪の陣では七兵衛自身も百姓新左衛門と共に人夫として参戦し、新左衛門を戦で失いつつも首級を3つ上げた。この功により「七兵衛」に取った首数の三を足して 「十兵衛」と言う名を褒美として賜り、代々箕輪家の当主は十兵衛を名乗る事となった。これが後に「櫻田に過ぎたるもの〜」と唄われる事になる箕輪重兵衛の由来である。 ちなみに麻布区史「第二節明治初年の区制(452ページ)」には明治2年(1869年)麻布櫻田町の中年寄として箕輪重兵衛の名が掲載されており、大阪夏の陣のあった 慶長20年(1615)以来250年あまりもその名が受け継がれていた事がわかる。 そして、櫻田神社が溜池にあった江戸初期には箕輪重兵衛の住居が社の付近にありその住居に 榎木を植えたのが移転後も残り「箕輪榎」と呼ばれ 現在アメリカ大使館前の「榎坂」の語源となった。
余談となるがこの箕輪重兵衛の他にも櫻田町の旧家として、
樋田長右衛門
- 同じく元甲州浪人で櫻田郷からの名主の家。麻布に替地後は櫻屋という紺屋(染物屋)を営み、正保年間(1640年代)将軍家光が笄橋で鷹狩をした際に白雁を捕獲して将軍手づから巾着より褒美を頂き代々名主を勤めたと言う。(一説にはその褒美は銭3文とあり、家光はケチであったのかもしれない。)
七蔵
などがありもしかしたら各家共に、今も大切にその由緒が受け継がれているのかもしれない......。- 先祖は櫻田郷以来の灌左衛門という酒屋を営む代々年寄を勤めた名家。
※この櫻田町二編はむかし、むかし150回自画自賛記念として、最近迷惑をかけっぱなし?かけられっぱなし!の櫻田町の偽名主・忠兵衛殿にお贈りいたします。
むかし、麻布のあるお稲荷様の神主が、朝起きて境内の掃除をしていると、人の目を書きその目に釘を打ち込んで人を呪った紙 が御神木に張りつけてあるのを見つけた。神主は悪い考えの人もあるものだとし思い、その呪いの紙に、
目を書いて呪いはゞ鼻の穴二つ 耳でなければ聴くこともなしと書いて貼り付けた。すると翌朝、今度は耳を書き足した呪いの紙が打ち付けてあった。そこでまた、
目を耳にかえすがえすも打つ釘は つんぼうほども なを きかぬなりと筆太に書いて貼り付けておいた。すると2,3日後に今度はわら人形が5寸釘で御神木に打ち付けてあった。そこで神主は再び、
稲荷山きかぬ祈りに打つ釘は 糠にゆかりのわらの人形と書いて貼り付けたので、呪いの紙を書いた者もさすがに根負けして、以降は何もなかったという。
※ この話は麻布のある稲荷としているが、もしかしたら「一本松」のことかもしれない。一本松も別名「呪いの松」とも呼ばれていて、江戸初期までは氷川神社の境内であった。
港区の図書館が、遅まきながらインターネット蔵書検索に対応したようなので早速「麻布」で検索をかけてみた。すると83件がヒットしそして麻布(あさぬの)などの無関係な項目を除いた結果、興味のある本がいくつか浮かび上がってきた。そのひとつは「港むかしむかし」というタイトルで本項のタイトルとよく似ており、早速高輪図書館に閲覧に行ってみた。
カウンターで書名を言って教えられた場所を探したが見つからず、係りの方に探してもらうと別の棚から本というよりは小冊子のような手作り風の冊子が見つかった。表紙は手書きで本文は印刷だがルビが手書きで振ってあり、寄贈の印が押されている。発行年は明記されていないがかなり古いもので、おそらくはどこかの小学校で先生が個人的の作成されたものと思われた。内容は麻布七不思議をはじめとして港区の不思議話・昔話が数多く掲載されており、パソコンのない時代手作りでこの本を作成した作者の苦労がしのばれる逸品である。内容は以下。(※リンクはDEEP AZABU内同一内容の記事です。)
- 麻布七不思議
- @善福寺の逆さ銀杏 A六本木 Bかなめ石 C釜なし横丁 D狸穴の古洞 E羽衣松 F広尾ヶ原の送り囃子
- ・狸坂の狸
- ・狐坂の狐
- ・がま池
- ・こうのとりがつたえた霊薬
- ・火消し地蔵
- ・お珊(さん)地蔵
- ・奴地蔵
- 麻布名物
- @狸そば A狐しるこ Bお亀団子
- ・綱産湯の井戸
- ・親鸞のおきみやげ−善福寺の「逆さ銀杏」
- ・浅岡飯たきの井戸
- ・間垣平九郎は実在の人物か
- ・紅毛久助(あかげきゅうすけ)の墓
- ・むかっ腹をたてた「め組」の半鐘
- ・これは意外!−村上喜剣と寺坂吉衛門
- ・内匠頭の亡霊魚屋にたたる
- ・首洗い井戸
- ・我善坊の猫又(ばけねこ)
- ・小判をのんで死んだ話
- ・死んだ人の肉を食べたお坊さんの話
- ・陸蒸気をまねしたたぬき
- ・竹芝の長者
最近ネタ切れで(というよりただの怠慢ですが…)あまり更新もしていなかったのですが、つい最近「東京を騒がせた動物たち」林 丈二著(大和書房)という大変面白い本をみつけ狂喜乱舞してしまったのでご紹介。これは主に明治期の東京での動物と人間の珍事件を著者が20年あまりの歳月をかけて丹念に当時の新聞から拾い集めた貴重な資料で、著者はイラストレーターであり、かの路上観察学会会員とのこと。
今回はこの中から麻布近辺の「狸」にちなんだ珍事件の要約を......。
明治13年1月14日の明け方巡査が巡回中、中ノ橋付近にさしかかったところ雲を突くような大男が足音もなく歩いてくる。これをを訝しんだ巡査が職務質問をすると、その大男は返事もせずいきなり飛びかかって来そうな気配なので巡査がサーベルで切りつけると二太刀目に確かな手ごたえがあり、倒れたそばに行くと尾の太さが30センチもありそうな古狸であった(明治13年1月15日付「読売新聞」)。※これは古川端で遊んだ狸が狸穴にでも帰る途中だったのでは?
また同じ年の2月2日にも今度は三ノ橋で午前五時ころ、巡査に飛びついた狸が退治されている。そしてさらにその前年の明治12年10月8日午前二時半ころ、本村町の荒れ寺裏手で最近提灯を吹き消したり、道がわからなくなる者が続出したので巡回中の巡査がやはり提灯を吹き消そうと藪の中から飛び出してきた狸を、持っていた棒で一撃の下に退治した(明治12年10月9日付「読売新聞」)。
やはり狸坂、狸穴坂、狸橋などの地名が今でも残る麻布ならではの「狸」との因縁の深さを改めて感じ、狸坂の狸は大正時代まで目撃されたという地元の言い伝えもあながち否定できない。その他にも麻布近隣では、
明治11年11月24日−品川八ツ山下で機関車に化けた狸が本物の機関車に轢かれる。
明治14年5月15日−芝紅葉山で能舞台に現れた狸を馬丁たちが撲殺(明治14年5月17日読売新聞)
明治16年4月17日−芝紅葉館下の水茶屋付近で見つかり、ペットとして飼われていた狸(名称たあ坊)
が病気になって苦しんでいたので見かねた飼い主の水茶屋の使用人が人間用の医者の往診を依頼
しこれにより快復。(明治16年4月21日東京絵入新聞)
明治22年6月19日−上目黒で拾った乳飲み子狸を白金に持ち帰り飼育したら、
親狸が上目黒から頻繁に通い乳を与えた。(明治22年6月25日東京朝日新聞)
<関連記事>
狸穴の古洞・ 広尾ヶ原の送り囃子・ 狸坂の狸
狸橋の狸そば・ 冨永金左衛門の化け物退治・ 堀田屋敷の狐狸退治
小豆ばかり屋敷・ 番外七不思議・ 狸狐の仕業(白金)
前回お伝えした「東京を騒がせた動物たち」の麻布近辺の「たぬき」に続き、今回は「きつね」とその他の動物話をご紹介。
明治8年10月−麻布三河台のイギリス人宅の庭にいた野狐が鉄砲でしとめられ、それを貰い受けた人力車夫が酒の肴にして食べた。(明治8年10月19日−東京平仮名絵入新聞)
明治10年12月−芝金杉の蓬莱座では災い事が続いて休業していたが、いつのまにか舞台の下に野狐が住み着いた。これを伝え聞いた座元は「金杉稲荷のお使いが住み着いているとはなんと縁起かよい」と大いに喜んだ。(明治10年12月13日−東京日日新聞)
明治13年11月−浜離宮で狐やカワウソが池の鯉を狙うのでカワウソ退治が行われた。(明治13年11月10日−読売新聞)
明治26年5月−麻布区西町のとある貸し屋敷は家賃が安いのに3日もすると住人が逃げ出してしまい居着かない。夜半を過ぎると家鳴りがして、明くる朝には畳や縁側に血が付いているので、近所の人はこの屋敷を化け物屋敷と呼んだ。この話を聞いて伊藤雄次郎という人が正体を確かめようと夜半に屋敷に行くと、突然家鳴りがしたので驚き見るとそこには一尺七寸の大ヤモリがねずみを追いかけて食らっていた。(明治26年5月19日−東京朝日新聞)
他にも、
明治7年9月18日−芝山内で延宝2年の亀が捕まる。
明治8年5月23日−芝愛宕でトンビが油揚げを盗む。
同年6月11日−芝伊皿子で馬が井戸に落ちる。
明治10年2月21日−麻布谷町でナベヅルが庭に舞い降りる。
同年12月−芝金杉で縁の下のムジナが了見の悪い下女だけに悪さをする。
明治12年11月18日−芝金杉で狐が汽車に轢かれる。
明治18年4月−芝高輪南町でニワトリが四角い卵を産む。
明治19年1月10日−三田四国町でキツネがマグロを盗む。
明治34年6月14日−笄町で藪から飛び出た狸を捕まえて飼育。
同年8月−飯倉片町の徳川邸でスズメ合戦。
明治35年10月29日−本村町で柿の木にとまった鷹を生け捕る。
その他にも麻布近辺とは無関係だが面白ネタとして、
明治6年7月−タヌキに按摩をさせる。(日本橋蛎殻町)
明治9年3月−寝ていたキツネを打ち殺して食べる。(牛込)
同年9月−源頼朝が放した鶴を捕まえる。(南品川)
明治12年5月−ニワトリが犬の子を産む。(紀尾井町)
同年10月−すずめがコレラにかかる。(神田和泉町)
明治13年12月−海水浴場に現れたタヌキがたぬき汁となる。(芝金杉)
明治14年2月−母キツネを料理し、子ギツネに仇を討たれる。(千住)
明治17年5月−仲良しの猫とキツネが井戸で情死。(荏原郡鵜の木村)
明治21年6月−暴れ牛、暴れるだけ暴れて家に帰る。(芝高輪南町)
明治28年10月−酔っ払った猿回しが猿に介抱される。(下谷徒士町)
......きりがないので、このへんで終わります。
<関連記事>
148.化けそこねた泥棒キツネ
青山長者ヶ丸(現在のスパイラルホール近辺)に住む御広屋敷添番の戸村福松(百表取り)は、 「相馬の金さん」と呼ばれていた。先祖が平将門の相馬小次郎であるためそして金は幼名と言う。 妻子がありながら生活は滅茶苦茶である。 裃もなく明番で下城する同僚をつかまえて渋るのをむりやりに借りて勤めに出る。屋敷も荒れ放題で金目のものもほとんどない。
ある日家財の中から最後に残ったうす、汚れた刀箱を手にして麻布の質屋を訪れた金さんは、 番頭を捕まえて刀箱の中には先祖伝来の宝刀がある。しかしこの宝刀は父の遺言で一度しか見ることができない。そして家督を相続するときにその一度目を見てしまった。そこで中を見ないでこれを10両で預かってほしいと言った。すると番頭は、中身もわからないものに10両は貸せないと言い、押し問答になった。するとそこに主人が現れて先ほどからの話を聞いてやはり預かるわけにはいかないという。
こんな答えは最初から想像していた金さんは少しもひるまずに、家督を継いだもの以外がむりに中を開けると刀が蛇になってしまう。と切り返し、質屋に中身を確認させない。困った主人はそこまでいうなら中を確認しようじゃないかと刀箱を開けると「あ!」っと箱を放り出してしまった。その中から黒い蛇が這い出してきたのだ。それを見た金さんは主人を張り倒し、家宝の刀を蛇にしやがって、この落とし前をどうしてくれるといきまいて、10両の大金をまんまとせしめた。しかし悪いことはできないものでこの話が江戸中の評判となって公儀の耳に入り、金さんは隠居を命じられ世をはばかって静かに暮らしたという。しかしその後の明治4年(1868年)汚名返上のため彰義隊に加わり勇戦したが、敗戦後行方不明となったという。
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