麻布辺の落語・講談・小噺
麻布辺の落語・講談・小噺
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1.井戸の茶碗(飯倉片町)
細川井戸(畠山記念館)
清兵衛が住む谷町辺
噺の舞台、白金・高輪辺 麻布茗荷谷(麻布谷町)の裏長屋に住む正直者の屑屋清兵衛が、とある裏長屋の浪人・千代田卜斎(ぼくさい)から買った仏像を細川家の高木作左衛門という若侍に売り、 高木が仏像を磨いていると....落ちは「いや、磨くのはよそう、また小判が出るといけない」。
善人しか登場しない人情話。清兵衛の住まいが麻布谷町で細川家の屋敷が芝白金(現在の高松中学あたり) という設定で、裏長屋の浪人が住んでいたのは十番あたりであろうか(※芝西応寺の裏長屋でした)。この噺の原型は江戸期、栗原東随舎の随筆「思出草子」の「茶碗屋敷」 に細川家足軽の話として掲載されている。内容はこの噺とほぼ同じだが、細川公に献上された茶碗は殿中で、事の由来を聞きつけた田沼意次 に所望され貸し出された。しかし田沼はなかなか茶碗を返そうとせず、困り果てた細川家では、ある家老が一計を案じ、その茶碗と引き換え に神田橋にある広大な土地を手に入れる。そして、その屋敷は茶碗屋敷と呼ばれたという。
また出典は講談「細川茶碗屋敷の由来」を元にしたものとも言われているが茶碗は実在のもので「細川井戸」と呼ばれ天下三井戸に挙げられる。 この茶碗は「細川井戸」と呼ばれ、細川三斎(忠興)から伊達家、松平不昧、畠山一清の所有者の手えを経て現在は 畠山記念館が所有する。 噺の時代設定は四代将軍綱吉の頃とされるので細川家の当主は忠興ではなく、すでに茶碗は他家に渡っていたと思われるが、委細は不明。
- ○井戸茶碗
- 井戸茶碗とは当時珍重された高麗茶碗の一種で「井戸」の名の由来は諸説あるが、単純に「井戸のように深い茶碗」の意とする説が有力とのこと。
- ○天下三井戸
- 喜左衛門井戸・加賀井戸・細川井戸
<関連項目>
・Wikipedia井戸の茶碗
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2.おかめ団子(飯倉片町)
現在のおかめ団子跡地
永坂・飯倉片町 おかめと言う名の器量よしな娘を持つ団子屋に、太助と言う親孝行な大根屋が団子を求めて来ると.....。
こちらもほのぼのとした話。落ちも好きだ。
この団子屋は文政年間から明治30年まで飯倉片町の永坂角に実在した。創業者は、諏訪治太夫という釣り好きの浪人で ある日品川沖で、耳のある亀を釣った。
亀を持ち帰り、自宅の池で飼う事に。女房は、池のほとりに茶店を出し、 珍しい亀の見物人に”亀団子”と名づけた団子を売ると、これが大繁盛。
二代目の女房は、”おかめ”に似ていたので”お”を付けておかめ団子とした。 おかめ団子は江戸の評判となり川柳にも「鶴は餅、亀は団子で名が高し」と読まれ、また、東京のわらべ歌にも 「お尻の用心小用心、今日は二十八日、明日はお亀の団子の日」とある。そしてお亀団子は次項「黄金餅」の話の中にも登場する。
団子は黄粉をまぶしてあり、一皿十六文と記録にあるという。
おかめ団子があった場所(六本木5-18-1)は現在「朝日屋」という文具店となっているが、店主に聞いてみたが明治期に移転してきたが有名な団子屋の場所であったことは知らないとのこと(残念!)。
この鶏鳴旧跡志の後を麻布区史は、「斯程(かほど)の団子屋も七度強盗に見舞われたのがケチのつきはじめで、とうとう明治に入って間もなくつぶれてしまった。」 としており、出来心の孝行息子の泥棒という噺の筋はそのあたりをなぞらせたものかも知れない。
- ○麻布区史−昭和16(1941)年
- 飯倉片町にあつて江戸時代には更科と並び称される程有名であつたが、維新後なくなってしまった。尤も同名の店が明治十五年から同四十一年迄あつたが、 これは昔の店とは何等関係もない。おかめ団子は一盆の値、並は十二文、上等十六文であつたが、大抵の者はその何れかで満腹したと云ふ。間口三間、奥行十一間の 総二階は常に人を以て溢れ、傍の上杉駿河守、岩瀬内記などの武家屋敷の石垣には何本も薪雑棒(まきざっぽう)を突込んで馬方が持馬を繋いでゐたと云ふから、兎に角 その繁盛は素晴らしかつたに違ひない。
- ○鶏鳴旧跡志(けいめいきゅうせきし)−文化十三(1816)年
- 麻布飯倉に水野家の浪人諏訪治郎太夫と云ふもの爰(ここ)に借宅してゐたりしが生来釣を好み秋に至れば品川の沖を家として日を暮らす。 或る日小さき亀一つを釣る。其亀常の亀と異り尾先髪筋の如くふつさりとして青く如何にも小さき耳を生じたり。治郎太夫大いに喜び持ち帰りて 之を飼ふ。聞及びし人々来り見ること布を引くが如し。治郎太夫大の妻は神奈川の百姓の娘とて志堅く賢き者なれば、親里より米を取り寄せ団子を製して之を売る。 亀を見物に来し人々茶店に休んで団子を買ふ。夫れより流行して亀団子といふ。治郎太夫大此団子に利を得て、女房の親里神奈川の在に空地を求め朝暮の煙細からず 暮らして今に在り。 治郎太夫大が跡へ近所の町人入り替わりて団子を製す。此の女頬高く鼻低き女なれば、世の人亀団子を改めておかめ団子と呼びぬ。宝暦のことなり、今は三河屋平八 とて益々繁盛せり。治郎太夫大より何代目か知らず。
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3.黄金餅(絶江坂)
道中付け地図
麻布辺の道中付け 下谷山崎町の裏長屋に住む金山寺味噌売りの金兵衛は、このごろ隣の住人願人坊主西念の具合が良くないので、なにかと世話を焼いている。 ある日、あんころ餅が食べたいと言い出した西念に、餅を買ってきてあげると....。
何と言ってもこの話のメインは、死んだ西念を漬物樽に詰めて、下谷から麻布絶江釜無村の木蓮寺まで運ぶくだり。麻布内を飯倉片町〜お亀団子〜永坂〜麻布十番〜大黒坂〜一本松〜絶江釜無村とたどる。木蓮寺は、架空の寺だが、落語では、荒れ寺の象徴らしく 「悋気の火の玉」にも谷中木蓮寺として登場。また麻布絶江釜無村は実在の地名で後に釜無横丁と呼ばれ、現在の南麻布の一角にあった。話の最後に取り出した金で、目黒に餅屋を開いたとされる話は実話だと言われる。 悪銭が身に付いた?珍しい話で、”落ち”は無い。古今亭志ん生は四代目五明楼玉輔から習ったとされ、後に自身の十八番(おはこ)とするまでに完成された。志ん生の下谷から麻布までの行程をを一気に並べ立てる「道中付け」は必聴。
<追記>
この噺は明治期に「大圓朝」と呼ばれた三遊亭圓朝が創作。初版の噺では裏長屋が芝将監橋で、運び込む寺は麻布三軒家町にある架空の寺・貧窮山難渋寺。「道中付け」は大正期のデフォルメ。 噺の出展は江戸期の「窓のすさみ」で、老僧が小判を飲んで死ぬのは実際に起きた事だと思われる。また腹から出した金を元手に「黄金餅」を売り出 したのは圓朝初版は芝金杉橋で大正以降は目黒となっている。
●「道中付け」下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、 そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、 鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通四丁目へ出まして、 中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、 新橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉六丁目へ出て、 坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出まして、 大黒坂を上がって一本松から、麻布絶口釜無村の木蓮寺へ来たときにはずいぶんみんなくたびれた。...あたしもくたびれた。●圓朝初版の行程(想像)将監橋→赤羽橋→中の橋→一の橋→十番→暗闇坂下右折→増上寺隠居所下→狸坂下→宮村新道?→狐坂(大隅坂)→麻布三軒家町貧窮山難渋寺(市谷山 長玄寺?)※注)
- ・芝将監橋
- 古川最下流部、金杉橋と芝園橋の間に架かる橋。橋名は古川改修工事の奉行岡田将監からとられた。江戸期芝園橋は架橋されていなかったので金杉橋−将監橋−赤羽橋となっていた。
- ・麻布絶江
- 麻布本村町内の字名。日東山曹渓寺開祖「絶江」和尚からとられた。日東山曹渓寺は「木蓮寺」のモデルとされる名刹で江戸期には赤穂浪士の寺坂吉右衛門が寺男を勤めた後、寺門前の「土佐新田藩」に仕官した。 絶江坂も同義だが、別説には絶江とは「江戸が絶える(場所)」の意味ともいわれる。 麻布本村町は上之町・谷戸町・西之台・絶江・川南町・仲町の字があった。
- ・絶江坂
- 承応二(1654)年坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり坂名に変わった。
<関連項目>
・圓朝のくたびれない黄金餅
・寺坂吉右衛門
・釜無し横丁
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4.小言幸兵衛(古川町)
江戸末期の古川町 麻布古川町の大家、幸兵衛はいつも長屋を回り小言を言い歩く。次々と店を借りに来る人達にむかい小言ばかり.....。 町の職業が手に取るようにわかる話。落ちは、鉄砲鍛冶、花火職人など演者により変わる。
この時代の大家は、地主に委託された管理人が多かったが、町役人も兼ねていたので絶大な権限を持っていた。
古川町の町名は麻布を冠した「麻布古川町」と古川の対岸三田の飛び地「三田古川町」が隣接していた。 麻布古川町の町名は江戸期のもので、明治初期に麻布古川町は土佐新田藩山内氏の屋敷敷地などを合わせて「麻布新堀町」となる。
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5.講談・狸穴の婚礼(狸穴)
狸穴坂
狸穴坂
飯倉交差点の萬屋(麻布区史) 品川御殿山から四谷まで続く洞窟の中には数千の狸が住んでおり、人に害をなした。 そこで入府間もない徳川家康の家臣井伊直政の家老を務め剛勇で有名な 奄原助左右衛門(いおはら・すけざえもん)が狸穴の古洞から巣に入り狸を根絶やしに退治した。 しかし、その中の子ダヌキがたった一匹残り、ネコの乳で育てられた。このタヌキが長じて近所の人に害をなし、 そのタヌキが退治されると今度はネコが仇をなし、続いて鼠が害をなすという 麻布七不思議『我善坊の猫又』への因縁がからんでくる噺。
<関連項目>
・麻布七不思議・狸穴
たぬきそば
・麻布七不思議の定説探し
・麻布を騒がせた動物たち(其の壱・たぬき編)
・麻布を騒がせた動物たち(其の弐・きつね・他 編))
・狸坂
・狐坂
・我善坊の猫又
・麻布さる騒動−その1
・麻布さる騒動−その2
・化けそこねた泥棒キツネ
・猿助の塚
・堀田屋敷の狐狸退治
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6.艶笑小噺・かわらけ町(飯倉)
飯倉交差点の萬屋(麻布区史)
土器坂 これは落語ではなく艶笑小噺だが江戸時代に飯倉四ッ辻辺にあった地名、土器町(かわらけまち)にちなんで三遊亭圓生が創作し、噺の枕に使われた4分ほどの小噺。 萬屋は飯倉四ッ辻にあった実在の老舗で麻布七不思議「我善坊の化け猫」「我善坊の大鼠」の舞台。
- ・
土器町
- 安永年間(1772〜1781年)の頃まで、このあたりに赤土を使った焼き物をつくる職人が多く住んだことから発生したといわれ、近隣「赤羽」の地名もこれに関連して
赤埴 の転化とする説もある。
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土器坂
- 飯倉四ツ辻から赤羽橋へ下る坂。飯倉町二、三丁目付近に土器町の俗称があった事に由来する坂名。
<関連項目>
・麻布七不思議・狸穴
・たぬきそば
・麻布七不思議の定説探し
・麻布を騒がせた動物たち(其の壱・たぬき編)
・麻布を騒がせた動物たち(其の弐・きつね・他 編))
・狸坂
・狐坂
・我善坊の猫又
・麻布さる騒動−その1
・麻布さる騒動−その2
・化けそこねた泥棒キツネ
・猿助の塚
・堀田屋敷の狐狸退治
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7.松葉屋瀬川(谷町) 本ばかり読んでいて堅すぎる息子を案じた大店・下総屋善兵の願いで幇間が 若旦那の善治郎を吉原へ連れ出すと、 薬が効きすぎて松葉屋の瀬川という花魁にすっかりはまってしまい、大金を使ったあげくに親から勘当される。 行く当てのない善治郎が永代橋で大川に飛び込もうとしたところを店の元使用人忠蔵に救われ、麻布谷町の貧乏紙くず屋忠蔵の居候となる。
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8.首提灯(芝山内)
芝増上寺門前の碑 追いはぎや辻斬りが横行していた幕末の増上寺裏手。一杯ひっかけ千鳥足で品川の遊郭にむかう町人。突然暗闇から田舎侍に声をかけられると.....。 今の、東京タワ−のあたりだろうか。ここは、新橋方面から品川遊郭への近道であったが、幕末には、実際に辻斬りが盛んだったらしい。話は、SFチックで今の人にもなじみやすい。 私が聞いたのは、小さんの話で、まくらには胴切りにあった町人が、上半身は風呂屋の番台に、下半身は、こんにゃく屋に奉公する。
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9.お祭り佐七(芝神明)
増上寺境内の「め組碑」
佐七の墓
品川区南品川・天妙国寺 久留米藩士、飯島佐七郎は腕が立って男前。女達が放っておかない。しかしそれがアダで浪人になり、め組の頭清五郎の家にころがりこんだ。 お祭り佐七が鳶になるまでの話。なぜ”お祭り”なのか小さんは、木遣りがうまく方々の祭りに招かれたからだと。
ちなみに久留米藩は赤羽橋に藩邸があり、邸内の水天宮と火の見櫓が有名であった。
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10.芝浜(芝金杉)
芝浜辺
芝4丁目交差点・東京港口 芝金杉に住む魚屋勝五郎は、腕も人間も良いが、大酒のみの怠け者。質入れしてまで酒を飲む。ある年の瀬、業を煮やしたおかみさんに起こされしぶしぶ河岸へと向かうが.....。 この話を、一度も聞いた事が無い人はいないだろう。ここで言う河岸とは、金杉浜町の雑魚場。幕末に”芝浜”、”財布”、”酔っ払い”の三題話として三遊亭円朝がまとめた。
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11.居残り佐平次(品川)
土蔵相模跡
鰻店・荒井屋跡 良からぬ仲間が集まって、品川遊郭で大見世遊びをしようとしたが、みんな金が無い。そこで兄貴分の佐平次は俺に任せろと.....。 当時の遊郭”相模屋”は、実在する品川でも一二を争う大見世。金が無いので人質に居残った佐平次の胸のすくような?活躍。 ちなみに”佐平次”とは、浄瑠璃や落語で図々しい人、良く喋る人の隠語との事。
舞台となる「土蔵相模」という実在の有名な見世は現在マンションとなり、旧東海道に面した1階はコンビニエンスストアーとなっている。現在の北品川付近(北品川1-22-17)。 この土蔵相模は御殿山のイギリス公使館焼討実行犯の高杉晋作・久坂玄瑞・井上聞多・伊藤俊輔・品川弥二郎が当日止宿した宿としても有名である。当時の店構えの模型が品川郷土資料館に展示されている。 また噺の中で「〜荒井屋の中荒(中串)かなんかとって貰おうじゃないか〜」と語られる荒井屋も実在の鰻店で土蔵相模のすぐ近所(北品川1-22-4)。つい最近まで店は健在であったが、残念ながら「連」という今風の飲食店に変わった。
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12.五百羅漢(目黒) 八百屋の棒手振り八五郎は、ある日火事ではぐれた迷子の女の子を連れて帰ってきた。しかし女の子はショックからか口がきけない。 案じた八五郎とおかみさんは.....。
五百羅漢寺の住職が「な〜ぁに、今は親子ヤカン(羅漢)だよ」というオチで終わる人情噺。
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13.江島屋騒動(芝神明・芝日陰町) 深川の佐賀町に住む医師倉岡元庵が亡くなり妻お松と娘のお里は故郷の下総に引き下がる。 すると村名主の息子がお里を見初め、婚儀となる。母のお松は結納金の五十両で江戸に出向き、芝神明の祭りを見て芝日陰町の大店古着屋・江島屋で婚礼衣装を買い求める。 婚礼当日、式の後に給仕をしていたお里の婚礼衣装がのりで貼り付けただけのイカモノ(まがい物)だったために、破れて来客の前で下半身が露出してしまい、それに怒った名主により破談となってしまう。 お里は恥ずかしさとイカモノ婚礼衣装を売りつけた江島屋を怨んで池に飛び込んでしまい....
志ん生が夏の演題として得意とした怪談。
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14.ちきり伊勢屋(札の辻・品川)
占いの名人白井左近から死の宣告を告げられた伊勢屋の若旦那伝次郎は、積善を積めば来世は長生き出来るといわれて施しにつとめた。 豪勢な葬式までやったが生き延びてきれいさっぱり身代を使い果たす。しかし.....。 生き延びた伝次郎が占いの名人白井左近に札の辻で偶然出会い、再び占ってもらうと南の方角で運が開けると品川に居候.... 「積善の家に余慶あり」という人情噺。 ちきり・ちぎりとは前世からの因縁、ゆかりの意味。
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15.しじみ売り(汐留) 茅場町の魚屋和泉屋の親方次郎吉(義賊ネズミ小僧)が新橋汐留の船宿伊豆屋で雪見酒と洒落込んでいた。 そこにシジミ売りの小僧がが訪れ、小僧の身の上話から父親が身を持ち崩したのが自分が投げ込んだ金が仇となった 事がわかった次郎吉は.....
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16.徂徠豆腐(増上寺門前・魚籃坂下)
芝大門〜増上寺辺
魚籃坂
魚籃坂下(三田寺町)・長松寺 豆腐屋の七兵衛さんは芝増上寺門前の貧乏長屋に住む貧乏浪人の「お灸がツライ」とかいう青年に出世払いで豆腐を売り続けた。 しかしある日忽然と長屋から姿を消した青年を案じていた七兵衛さんも店が火事で焼けてしまい着の身着のままで魚籃坂下に居候 している元に十両の大金が届けられる。 荻生徂徠の立志伝に赤穂事件をからませた人情噺。
芝大門と魚籃坂下が舞台。ちなみに荻生徂徠の墓は魚籃坂下(三田寺町)の長松寺にある。
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17.品川心中(品川)
旧東海道と島崎楼跡 白木屋の板頭(ナンバーワン遊女)のお染は紋日前だというのに移り替えが出来ない。恥をかくくらいならいっそ心中をと思い立ち 貸し本屋の金蔵を相手にすることに決めると....
品川の海は遠浅で膝くらいまでしか水深がないので、心中ははなから無理である。舞台の白木屋は架空の屋号だが、当時桟橋を備えていた 貸座敷は「島崎楼」のみだったので舞台はここだといえる。
おなじみの上段部分に加えて、噺には自分だけ海に飛び込んだ金蔵が幽霊のような形相で兄貴分の家に戻り皆でお染に意趣返しをする 下段があるが噺が暗いのであまり演じられることはない。
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18.目黒のさんま(目黒) 殿様が目黒まで遠乗りに出た折りに空腹から付近の農家で焼いていたサンマを求めると....おなじみの「サンマは目黒に限る」という 落ちの噺。噺の舞台は目黒とだけあるが、目黒鷹場付近にあった「爺が茶屋」とする説もある。 現在も毎年「目黒のSUN祭」・「目黒のさんま祭り」などのイベントでは焼きサンマがふるまわれる。
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