むかし、むかし11






174.続・ヒュースケン事件



      
「赤羽接遇所」跡の飯倉公園
「赤羽接遇所」跡の飯倉公園
      
ヒュースケン襲撃地点
ヒュースケン襲撃地点
      
慈眼山光林寺
慈眼山光林寺
        
ヒュースケンの葬送
ヒュースケンの葬送
以前アメリカ公使の通訳ヒュースケン事件をお伝えしたが、今回は続編をお伝え。

 事件があった万延元年十二月四日(西暦:1861年1月14日) ヒュースケンはアメリカ公使の通訳の他に、1860(安政7)年7月23日から芝赤羽接遇所に滞在中のプロシア使節オイレンブルグ と幕府との折衝の通訳・案内・相談役として多忙な日を送っていた。事件当日、ヒュースケン は江戸城の周りを馬で廻って午後6時頃接遇所に到着し、プロシア使節らと夕食を摂った。その後8時半頃まで雑談に興じた 後、3名の騎馬役人、従僕ら4人、馬丁2名と共に善福寺への岐路につき中の橋近辺で襲撃にあった。幕末異人殺傷録(宮永孝著) にはその襲撃場所が確定されており、襲撃地点は中の橋戸沢上総頭取組合辻番所でそこには「多数の血溜りあり」と記されて いる。また「200ヤードばかり走ったところで落馬」とあり京極佐渡守中屋敷前には複数の血溜りが記されている。翌6日午前 0時半死亡。死因は襲撃時に受けた、腸を切断するほどの深手による失血死であった。

 事件を聞いて真っ先に駆けつけたのは外国奉行小栗豊後守(のちに上野介)忠順で、ハリスに弔辞を述べると検死を行い 刀傷などを調査した後に深く心を動かされた様子で犯人逮捕を確約した。 また、その朝には外国奉行ら4名(村垣淡路守・竹本図書守・高井丹波守・滝川播磨守)もハリスを弔問し、犯人逮捕を確約した。 これに対しハリスは犯人逮捕を促す措置として、犯人を訴えた者には250両の賞金を出す事を表明した。

12月8日午後1時麻布光林寺において、幕府から再度の襲撃を予想してのハリス欠席要請を拒否してヒュースケンの葬儀が行われた。 亡骸はアメリカ国旗で包まれ、オイレンブルグがティーティス号船上で造らせた棺に納められて、善福寺に安置された。そして 8名のオランダ水兵(ヒュースケンはオランダ生まれであるため)に担がれて光林寺へと向かう。葬列は、

  1. 外国奉行(新見豊前守・村垣淡路守・小栗豊後守・高井丹波守・滝川播磨守)各自に長い供周りと護衛
  2. 米国・英国・フランス・オランダ・プロセインの弔旗。プロセイン水兵が捧載し、プロセイン海兵隊員6名が護衛
  3. プロセイン・フリゲート艦アルコナ号軍楽隊
  4. オランダ、プロセイン海兵隊護衛
  5. 日本教区長ジラール神父、外科医シルウス
  6. 遺体(オランダ海兵隊員8名で担う)
  7. 喪主オランダ総領事デ・ウィット、米国総領事ハリス
  8. 英国公使オールコック、フランス総領事ベルクール、プロシア全権大使オイレンブルグら各国公使
  9. 各国領事
  10. 各国代表部随員
  11. オランダ軍、プロセイン軍士官


と、荘厳な列となり光林寺へと向かった。沿道は好奇の目を持った群集であふれたが、警戒していた浪士の襲撃は行われず 棺は無事に光林寺へ到着した。山門から墓地に到着した棺はジラール神父の祈祷の後にプロシア軍楽隊の「イエスはわが信」 に送られて会葬者が各自一握りの土を穴に投げ入れた。その後光林寺住職により和式の葬儀も行われ、葬儀は終了した。

 葬儀翌日の12月9日にはイギリス公使館のある高輪東禅寺にハリス(米国総領事)、オールコック(英国公使)、ベルクール(フランス総領事)、オイレンブルグ(プロシア全権大使) 、デ・ウィット(オランダ総領事)らが集まり、幕府への抗議の意味から事件解決と賠償が確定するまでの間、各国公使館を横浜に移転 する事が決められた。しかしハリスはこの決議に反対で、ヒュースケン殺害事件は個人的な恨みによるもので外交問題とは 無縁であるとして江戸退去を拒否し、善福寺から星条旗が下ろされることはなかった。(オイレンブルグも条約締結中であった ため、江戸滞在を続けた。)

 襲撃犯については幕府の必死の探索にもかかわらず迷宮入りとなったが、幕府の報告書には「武家方侍四、五人」、ハリスは本国への 報告書で「7名」としている。そして襲撃犯について現在では攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平、樋渡清明、神田橋直助らの犯行というの が定説のようだが、伊牟田尚平は清河八郎が主宰した「虎尾ノ会」発起人にも名を連ねており、清河八郎が主導したと考えられている。 また事件の首謀者については、事件から半年後にシーボルトと共に江戸に来た長男のアレクサンダーは、

 私は2、3年後に聞いたのだが、下手人は一人の名の通った浪人だったが、この男もほとんど同じ場所で別の浪人の手に かかって殺されたというのは不思議な事である。

と、後年「ジーボルト最後の日本旅行」に書き残している。(アレクサンダーは父フィリップ・フォン・シーボルトが離日した後も 英国公使館通訳官として江戸に滞在した。)これは明らかに赤羽橋付近における「清河八郎 殺害事件」をさしている。父フィリップ・フォン・シーボルトはヒュースケンが殺害された事を当時滞在していた長崎で事件の 詳細を聞き知っており、江戸に到着するとすぐに頻繁にアメリカ公使館にハリスを訪問している。そして5月22日には光林寺の ヒュースケンの墓の墓参をしている。



   
   
ハリスによって造られた
ヒュースケンの墓標
ハリスによって造られたヒュースケンの墓標
   
ヒュースケン墓標の碑文
ヒュースケン墓標の碑文
(碑文)

SACRED
to the memory of
HENRYC HEUSKEN
interpreter to the 
AMERICAN LEGATION
in japan
BORN AT AMSTERDAM
january 20 1832
DIED AT YEDO



(和訳)
日本駐在アメリカ公使館付通訳ヘンリック・ヒュースケンの御霊に献ぐ。
1832年1月20日アムステルダムに生まれ、1861年1月16日江戸にて死去
※碑の撰文ははハリスが行い日本人の石工が作成した。文中ヒュースケンの名を「HENRYC」 としているが、これは誤りではなくヒュースケンの洗礼名「Henricus」を音訳した名とのこと。

※幕府崩壊の様子を描いた手塚治虫のコミック「陽だまりの樹」はハリス、ヒュースケン、善福寺(主人公が善福寺住職の娘に恋をします)も頻繁に登場します。是非ご一読をお勧めします。





関連項目

・ヒュースケン事件
・麻布山善福寺−(其の一)
・ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の弐)
・ハリスと唐人お吉
・ヒュ−スケンとお鶴、お里


参考文献
・幕末異人殺傷録−宮永孝
・シーボルト波乱の生涯−ヴェルナー・シーボルト
・陽だまりの樹−手塚治虫
・ヒュースケン日本日記−青木枝朗訳






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175.シーボルトの見た麻布
      
「赤羽接遇所」跡の飯倉公園
「赤羽接遇所」跡の飯倉公園



 1859(安政6)年7月6日、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと長男のアレクサンダーはイギリス客船イングランド号で長崎に入港した。来日は2度目 となるシーボルトは、前回来日時に妻となった滝、娘のイネと1830(天保元)年12月7日以来29年ぶりの再会を果たした。 そして、前回27歳の時に来日し34歳でいわゆる「シーボルト事件」で国外退去を申し渡されるまで日本に滞在したシーボルト も63歳となっていた。

 前回の来日はオランダ軍医としての来日で秘密裏に諜報活動もその任務として与えられていた(一介の軍医としては不相応の 大金を所持し、それにより日本にちなんだ物品・情報を大量に収集していた)が、今回は政府の公式な肩書きはなく、 民間の和蘭商事会社(国営の出島商館を解体して民営化されたものだが)顧問としての来日で、日蘭通商条約改正案の持参と コレクションの収集という目的もあった。そして目的を達し和蘭商事会社との契約を終了したシーボルトは長崎滞在中に 幕府の外交顧問を依頼され、江戸出府を促された。これにより1861年3月3日シーボルト父子・三瀬周三一行は長崎港をあと に横浜へと向かった。

 父子は1861(文久元)年3月10日横浜へ入港し外国人居留地で幕府からの指示を待つ。その間に多くの外国 人商人や外交官と親交を深め、特にフランス公使ベルクールとは頻繁に付き合うようになった。
 幕府から江戸行きの許可が下りたのは5月になってからで、5月10日の朝、船で神奈川まで行きその先は駕篭 に乗って江戸入りを果す。そして一行は夕方、幕府から宿舎に定められた芝の赤羽接遇所に到着した。 (駕籠はフランス公使ベルクールの好意により自身のものを貸し出されたといわれる。) その時の様子を、

〜海岸に通じる街道を通り、辻々には木戸や矢来があって閉じられるようになっていて、傍らに火の番小屋 のある所を通り過ぎると、赤く塗った門のある有馬候の屋敷の向い側にある、黒い塀で囲まれた玄関前の庭 を通って、私たちの宿舎、赤羽接遇所に着いた。〜

とアレクサンダーは、書き残している。


赤羽接遇所に着くと役人、日本側通訳、目付などに出迎えられ、その後外国奉行新見伊勢守の来訪により 将軍からの贈り物を拝領した。赤羽接遇所には条約締結のため直前までプロシア使節団が滞在しており、 建物の柱や壁にはプロシア兵たちの落書きやジョークなどが掘り込まれていたという。

江戸滞在時におけるシーボルトは「幕府の外交顧問」、「西洋文明の伝達者」として講義・面会・助言など 多忙を極めた。
また、各国公使、幕府外国担当の要人などに意見具申を重ねたが、滞在直後の5月28日深夜、東禅寺襲撃事件がおこると その事後処理に忙殺される。そして、シーボルトはオランダの公式な外交員ではなく幕府に雇われた 外交顧問という立場から各国代表の反感を買い、横浜で静養し再び江戸に戻った8月15日以降、特にオランダ公使デ・ウィット との関係は冷ややかであったという。そして9月にはデ・ウィットから頻発する外国人襲撃から身を守るためと称して江戸退去を 迫られる。しかしシーボルトはオランダの警護は求めずとして退去要請を無視すると、デ・ウィットは各国代表らと幕府にシーボルト の解雇を求め、無理やりに認めさせてしまう。失意のシーボルトは10月15日ついに江戸を離れ、横浜へと向かった。ここで長男のフィリップは 英国公使館の通訳官として正式に任官し江戸へと戻ることになり(父シーボルトは息子がロシア海軍の士官になる道を設定していたが、 フィリップの意向を尊重してのイギリス公使館勤務となったという)、これが父子の永遠の別れとなった。その後、横浜から船で長崎 に戻ったシーボルトは妻のたき、娘のいね、門弟などに送られて1862年4月30日午前10時、シーボルトを乗せた船は出港し日本を後にした。

以上がシーボルト2回目来日時江戸滞在のアウトラインだが、この期間のシーボルトと麻布の関連キーワードは「善福寺」である。
      
麻布山善福寺さかさ公孫樹
麻布山善福寺さかさ公孫樹



 シーボルトは江戸に到着した直後の5/20・5/21・5/22をはじめとして江戸滞在中、日記に記載されたものだけでも合計9回もハリス を善福寺に訪問している。当時江戸には、アメリカ公使館が麻布山善福寺、イギリス公使館が高輪東禅寺、フランス公使館が三田済 海寺、オランダ公館が伊皿子長応寺などにあるが、その中でアメリカ公使館は最初に江戸進出したことから持つ豊富な情報、 ヒュースケン事件(シーボルトはヒュースケンが殺害された事を当時滞在していた長崎で事件の詳細を聞き知っていた。)の真相と 進捗などを聞き、イギリス公使館は高輪東禅襲撃事件関連での訪問が続いたと考えられる。

そして特筆すべきは5月22日善福寺にハリスを訪問したさいに「逆さいちょう」の観察とヒュースケン・伝吉の墓参を行ったこと である。

 5月22日、善福寺のアメリカ公使館にハリスを訪れ「逆さ銀杏」を見たシーボルトは、

正午、ハリス邸へ。ヒュースケン、伝吉の墓参り。ハリス邸の寺院の境内に周囲30フィートの太さのイチョウ がある。この巨大な樹は、枝分かれの下、高さ12から18フィートあたりの幹から、太さ3から5インチの 太い根{気根}が出ている。東ロシアのヴァリンピの樹に似た形である。

私はイチョウの一本を江戸の近くの寺で観察した。その寺は、アメリカ公使館に譲ったものであるが、 木は周囲7m、高さがおよそ30mもある
     
   
ハリスによって造られた
ヒュースケンの墓標
ハリスによって造られたヒュースケンの墓標
   
ヒュースケン墓の正面にある伝吉(DAN KUT)墓
ヒュースケン墓の正面にある伝吉(DAN KUT)墓
   
伝吉(DAN KUT)墓の
碑文表面(英文)
伝吉(DAN KUT)墓の碑文表面(英文)
   
伝吉(DAN KUT)墓
の碑文裏面
(和文戒名)
伝吉(DAN KUT)墓の碑文-裏面(和文戒名)
と、帰国後「1886年ライデン気候馴化園の日本植物。説明付き目録の要約と価格表」に記しているが、 シーボルトが「逆さ銀杏」を観察し記録した事実はほとんど知られ ていないという。(シーボルト波瀾の生涯より)

 その後、同じ日に麻布光林寺で中の橋近辺で襲撃され命を落とした「ヒュースケン」の墓とその傍らにある イギリス公使館通訳伝吉の墓を参拝した。そして両者の墓碑銘を比較して「静と動の不思議な対比である」 と覚書に記している。


(ヒュースケン墓碑銘)

      日本駐在アメリカ公使館付通訳ヘンリック・ヒュースケンの御霊に献ぐ。
      1832年1月20日アムステルダムに生まれ、1861年1月16日江戸にて死去


(伝吉墓碑銘)

      伝吉Dan kutchiイギリス使節団付日本人通訳は、1860年1月29日、
      日本の暗殺者たちによって殺害された

















1861(文久元)年シーボルトの江戸滞在
出 来 事
5月10日横浜から神奈川を経由して陸路赤羽接遇所に夕方到着
11日赤羽接遇所員の勤務名簿を受け取る
20日善福寺にハリスを訪問
21日善福寺にハリスを訪問
22日正午再び善福寺にハリスを訪問し「逆さ銀杏」を見る。その後光林寺にヒュースケン、伝吉の墓参。
29日早朝3時半高輪東禅寺襲撃の知らせがあり、5時過ぎに25人の護衛に守られて東禅寺を訪問し負傷者を治療。
帰路善福寺にハリスを訪問。接遇所も厳重警備となる
30日高輪東禅寺の英国公使館にイギリス公使オールコックを訪問
6月3日安藤対馬守屋敷にて会談。東禅寺襲撃事件の話など
5日外国奉行鳥居越前守、イギリス公使オールコックが赤羽接遇所を来訪
6日外国奉行新見伊勢守来訪、水野筑前守らが来訪
15日子息アレクサンダーが父シーボルトの書簡を持ち善福寺を訪問
17日善福寺にハリスを訪問、イギリス公使との調停を斡旋
20日外国奉行津田近江守と会談。赤羽接遇所に新たに警護所が設けられ警備が強化される
7月1日冶金学の講義
3日外国奉行野々山丹後守来訪
10日遣欧使節団の計画案を作成
11日子息アレクサンダー誕生日。父シーボルトはマホガニーの箱に入った2連銃を贈る
12日将軍侍医団が来訪。その中の一人、伊藤玄朴は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟
13日前日善福寺で暴動(発砲事件)が起こり、赤羽接遇所も厳重警備となる
15日善福寺にハリスを訪問
16日将軍侍医戸塚静海来訪。静海は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟。仏公使ベルクール来訪
22日船で江戸から横浜へ出立。途中鈴ケ森で20歳の娘が放火犯として火あぶりの刑に処せられるのを
偶然見る。※この処刑は八百屋お七ではない(お七の処刑は天和3年(1683)3月29日
7/22−8/14、この間、シーボルト父子は横浜に滞在
8月14日朝7時、江戸へと出発
15日江戸に帰着したことを外国奉行に知らせる。道中で家々の玄関に「月見の祭り(仲秋の名月)」 の飾り付けがあるのを見る。
16日ハリスを訪問
20日浅草寺へ 芝田町波止場より船で浅草へ浅草寺参拝。浅草では外国掛役人が密かにハリスの警護をした
21日採鉱学の講義
23日津和野藩主亀井隠岐守の侍医、池田多仲が来訪
9月5日ハリスとクラークが来訪
6日ハリスとクラークが来訪
7日善福寺にハリスを訪問
10日外国奉行水野筑前守来訪。幕府が江戸退去を懇願していることを告げられる
15日冶金学講義
25日外国奉行で遣欧使節大使の新見伊勢守、新任の外国奉行、竹本隼人正、根岸肥前守来訪
10月11日子息アレクサンダーが横浜に出発
14日善福寺にハリスを訪問
15日江戸を出発し横浜に向かう。
(シーボルト日記より抜粋)




1861(文久元)年各国公使館・施設所在地
名 称公 使所在地・地図創設時期備 考
赤羽接遇所
講武所付属調練所跡1859(安政六)年8月〜ロシア領事ゴスケビッチ、 プロセイン使節オイレンブルグ、シーボルト父子などが滞在
アメリカ公使館ハリス麻布山善福寺1859(安政六)年6月8日〜子院善光寺はヒュースケン宿舎
イギリス公使館オールコック高輪東禅寺1859(安政六)年6月4日〜公使館通訳伝吉刺殺事件・2回の高輪東禅寺襲撃事件
フランス公使館ベルクール三田済海寺1859(安政六)年8月29日〜江戸で3番目の外国公使館。公使館の旗番ナタールが同地にて襲撃され負傷した三田聖坂上にある
オランダ公使館デ・ウィット伊皿子長応寺以前よりカピタン出府時に使用この時期オランダは長崎出島内に本拠があり公館ではなかったがカピタン出府時などに使用された。この寺は後に写真家ベアトのアトリエが併設される。公館は安政6年に西応寺に設置されたが、慶応3年薩摩藩邸焼き討ちの際西応寺が類焼しここ伊皿子の長応寺が公使館となった。一時期、スイスの公使館員が寄宿していた時期もある。寺は明治期に北海道に移転し現在はマンションとなっている。




 
      
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板@
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板@
      
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板A
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板A








赤羽接遇所跡

赤羽接遇所は、安政六年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた 外国人のための宿舎兼応接所である。同年八月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された 内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行十間のものとの二棟の木造家屋から成っていた。
幕末にわが国を訪れたプロシャの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として 日普修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、 幕末における外国人応接の舞台となった。

  昭和四十八年三月

  東京都港区教育委員会









幕末年表






関連項目

・ヒュースケン事件
・続・ヒュースケン事件
・イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の一)
・麻布山善福寺−(其の一)
・ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の弐)
・ハリスと唐人お吉
・ヒュ−スケンとお鶴、お里
・赤羽接遇所(外国人旅宿)



参考文献
・シーボルト日記・再来日時の幕末見聞録−石山禎一・牧幸一訳
・鳴滝紀要−シーボルト記念館
・黄昏のトクガワ・ジャパン−ヨーゼフ・クライナー
・シーボルト波瀾の生涯−ヴェルナー・シーボルト
・歳月−シーボルトの生涯−今村明生
・文政11年のスパイ合戦−秦新二
・ふぉん・しいほるとの娘−吉村昭
・シーボルト父子伝−ハンス・ケルナー
・ジーボルト最後の日本旅行−アレクサンダー・シーボルト
・幕末異人殺傷録−宮永孝
・陽だまりの樹−手塚治虫
・ヒュースケン日本日記−青木枝朗訳
・江戸の外国公使館−港区郷土資料館
・近現代沿革図集−−港区郷土資料館






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176.楠本イネの住んだ麻布



 
   
@ 麻布区我善坊町25番地
@ 麻布区我善坊町25番地
      
A 麻布区麻布仲ノ町6番地
A 麻布区麻布仲ノ町6番地
      
B 麻布区麻布仲ノ町11番地
B 麻布区麻布仲ノ町11番地
      
C 麻布区飯倉片町32番地
C 麻布区飯倉片町32番地
      
D 逝去地・麻布区飯倉片町28番
D 逝去地・麻布区飯倉片町28番
      
いね住居の変遷
D 逝去地・麻布区飯倉片町28番
 前回お伝えしたシーボルトには日本人妻「其扇(そのぎ)(たき)」との 間に、娘の「イネ」がいる。イネはのちに「オランダおイネ」とも呼ばれ女医の草分けとなったが、その晩年を麻布 で暮らした。

 イネは1827(文政10)年5月6日長崎出島で生まれたが、2歳の時に父シーボルトは国外追放となり、イネの養育は シーボルトの信頼する弟子の二宮敬作に託される。長じたイネは二宮敬作、石井宗謙らのもとで産科医としての 修行をはじめる。1852(嘉永5)年、25歳で石井宗謙とのあいだに長女「たか」が出生。その後もポンペ、ボードウィン 、マンスフェルトなどに医学を学び、1859(安政6)年32歳の時にシーボルトの再来日により母滝とともに父への再会を 果たす。その後、1870(明治 3)年には上京し築地で産科医を開業、福沢諭吉らと親交を持ちながら1873(明治 6)年− 宮内省御用掛を拝命し若宮の出生を助けている。しかしその先祖の墓所を守りたいとの念から長崎に帰省し、西南の 役が起こる1877(明治10)年、二度目のシーボルト江戸参府に付き添い、娘たかの夫となっていた三瀬周三が急死。これ によりイネとたかは長崎で同居を始めるが、まもなく医学を学ぶためにたかは江戸へとむかう。その後、1879(明治 12)年長崎に戻ったたかは懐妊していた。そしてその子が生まれると亡くなった前夫とおなじ名「周三」をつけた。 周三は生まれるとまもなく池原家に養子に出され、たかは請われて山脇泰介に嫁ぐ。しかし翌年、イネは池原家 に懇願して周三を自分の養子として貰い受け養育を始める。そして山脇家に嫁いだたかは二子をもうけるが、幸せは 長く続かず夫の山脇泰介が急死し、たかは再び長崎のイネのもとに戻り同居を始めた。

 その後、1889(明治22)年秋、シーボルト離日時に英国公使館通訳官として日本に残った異母弟アレクサンダーからの 招聘で再び東京に出る。そして麻布区仲ノ町11番地アレクサンダーの弟ハインリッヒの持ち家の空き洋館に住居を定め、 娘たか・孫(戸籍上は養子)周三、多き、たねと同居し、楠本医院を開業する(イネは医師免許を取得しなかったため産婆としての開業)。 この時に麻布区役所に提出した「借家寄留届」にはイネ自身の身分関係を「亡佐平孫楠本イ子」として親の名を記していない。ちなみに 1898(明治31)年戸籍法が制定されるとイネは長崎市に親の名を「新兵衛」として届けているが、これは死亡月日などから 母たきのことだろうと思われる。これらは当時有名人とはいいながらも異国人を父に持つという現実が世間の目からは相当 厳しくみられていたであろうこと忍ばせる。

 この屋敷で一年半あまりを過ごしたイネと家族は、明治24年5月10日に麻布区麻布仲ノ町6番地、明治25年5月20日 麻布区麻布仲ノ町11番地と麻布区内に住居を変える。そして明治28年5月18日(イネ68歳)麻布区飯倉片町32番地にて逝去する。前日の 夕食にイネは好物の鰻を食べ、その後孫たちと西瓜を食べた。夜半に腹痛を訴えて医者が呼ばれたが 食傷とのことだった。しかし明け方には昏睡状態となりその日の夜、家族に見守られながら息を引取ったといわれる。

イネが最晩年を過ごした麻布であるが、
@ 明治22年7月11日(イネ62歳)麻布区我善坊町25番地
A 明治24年5月10日(イネ64歳)麻布区麻布仲ノ町6番地に転居
B 明治25年5月20日(イネ65歳)麻布区麻布仲ノ町11番地に転居
C 明治28年5月18日(イネ68歳)麻布区飯倉片町32番地に転居
D 明治36年8月26日(イネ76歳)麻布区飯倉片町28番にて逝去
と、現在の飯倉片町交差点を中心としてこの場所への固執がみられるような気がする。これについてシーボルト記念館に質問 してみたが、その理由を明らかにする資料は見つからなかった。しかし、個人的な推測だがこの住居選定と養子の周三が 大きく関わっているような気がしてならない。これは、イネ一家の上京がイネが養子の周三に医学を志してほしいとの思い から発したもので、吉村昭著「ふぉん・しいほるとの娘」によるとイネは以前から親交のあった石神良策の娘婿である 海軍軍医石神亨に相談し、義父の愛弟子である高木兼寛の創立した慈恵医大への入学を勧める。そして周三はその意に答 えてイネの逝去前後に慈恵医大に入学している。

 この入学時期について吉村昭は「ふぉん・しいほるとの娘」でイネの生前で であるとしてこの入学を機に周三に鳴滝の土地の譲渡を行っているとしているが、慈恵医大データベースにある論文 「木兼寛の医学−シーボルトの曾孫・楠本周三−松田誠著」には、イネに慈恵医大を紹介したのは福沢諭吉であり、 周三の入学時期を1904(明治37)年としている。しかし1879(明治12)年生まれの周三は慈恵医大の入学時には25歳であった ことになる。これは当時の慈恵医大の受験は難関であったため浪人期間があるのかもしれないと論文は推測しているが、 独協中学への入学も周三の年齢を18歳としていて、小学校の後に2年間の高等小学校に通ったと仮定してもさらに 4年ほどのブランクが生じる。これは当時の一般的な中学の入学年齢の12歳前後からすると大変に遅いものである。 そして慈恵医大の卒業名簿から周三の卒業を1908(明治41)年29歳としている。これらのことから論文によるとイネの逝去時には まだ周三は慈恵医大には入学していなかった事となるが、イネが周三に慈恵医大入学を希望していたのは確かなことである と思われ、芝愛宕の慈恵医大の比較的近所であった土地を意識的に選んで移転していたのではないかと思われてならない。

余談となるが周三の実母「たか」は江戸末期には宇和島藩主伊達宗城の侍女として使えたが、その当時漫画家の松本零士の六代 前の先祖が三瀬周三の同僚で「たか」と面識があった。先祖は「たか」の美しさを代々松本家で語り継ぎ松本零士にも伝えられた。  この記憶によって松本零士は作品で描く宇宙戦艦ヤマトのスターシアや銀河鉄道999のメーテルなどの女性像を、「たか」を イメージして作った。と自身が語っている。

 イネの姓について「ふぉん・しいほるとの娘」で吉村昭は宇和島藩主伊達宗城がイネにそれまでの失本( しいもと)から「楠本(くすもと)」姓を名付け、 名をいね→伊篤(いとく)、としたとしているが 「鳴滝紀要-楠本・米山家資料にみる楠本いねの足跡−シーボルト記念館発行」によるとシーボルト記念館の収蔵資料に最初に 「楠本」姓がみられるのは明治2年だといわれ、それ以降も書簡などに失本を名乗っているものがあるという。 また名もいね、い祢、以祢、イ子(いね)を名乗っているが「稲」は 相手が宛先に稲を使用した書簡が残されているが誤りだとしている。最後に父シーボルトは再来日時の書簡では「Oine」と 書いている。


1827(文政10)年−5月6日 長崎出島で誕生
1830(天保元)年−12月7日シーボルト国外追放
1845(弘化 2)年−1851(嘉永4)年まで備前の石井宗謙         のもとで産科修業(18歳)
1851(嘉永 4)年−1854(安政 1)年まで長崎の阿部魯庵         もとで産科修業(24歳)
1852(嘉永 5)年−2月7日 長女たか誕生(25歳)
1854(安政 1)年−1861(万延2)年まで伊予宇和島の二宮敬作         のもとで産科修業(27歳)
1859(安政 6)年−7月6日父シーボルト再来日(32歳)
1859(安政 6)年−7月8日母たきとシーボルトに対面(32歳)
1859(安政 6)年−1862(文久2)年までポンペに産科を習う(32歳)
1862(文久 2)年−4月19日アレクサンダー英国公使館通訳官となる
1862(文久 2)年−4月30日父シーボルト日本を離れる(35歳)
1862(文久 2)年−1866(慶応2)年までボードインに産科を習う(35歳)
1869(明治 2)年−母たきの死亡により家督を相続(42歳)
1870(明治 3)年−アレクサンダー日本政府民部省入省(43歳)
1870(明治 3)年−上京し築地で産科医を開業(43歳)
1873(明治 6)年−宮内省御用掛を拝命(46歳)
1879(明治12)年−孫の「周三」が生まれるが、すぐに養子 に出される。(52歳)
1880(明治13)年−孫の周三を養家から引取り養子とする(53歳)
1883(明治16)年−孫の「多き」が生まれる(56歳)
1884(明治17)年−産婆免許願いを長崎県令に申請(57歳)
1887(明治20)年−孫の「多祢」が生まれる(60歳)
1889(明治22)年−7月11日長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳)
1891(明治24)年−5月10日麻布仲ノ町6番地に転居(64歳)
1892(明治25)年−5月20日麻布仲ノ町11番地に転居(65歳)
1895(明治28)年−5月18日飯倉片町32番地に転居(68歳)
1900(明治33)年−鳴滝の土地を周三に譲渡(73歳)
1901(明治34)年−隠居届を提出、周三戸主となる(74歳)
1903(明治36)年−8月26日麻布区飯倉片町28番にて逝去(76歳)




このように晩年の14年間を麻布で過ごした「いね」だが、何故麻布に住まいを決めたのかを解く鍵は孫の周三にあると思われる。 長崎を終の棲家としていたいねが人生最後の力を振り絞って上京したのは、私見ではあるが孫周三を医学の道に就かせたいという、希望というよりも 執念に近いものがあったように思えてならない。
前回の上京時に知己を得た慶應大学の福沢諭吉を通して慈恵医大を知る立場にあり、慶應大学にはまだ医学部がなかった事からも、いねは周三の慈恵医大入学を 熱望したのではあるまいか。そしてその願いが叶った折にも全寮制の慈恵医大からも近い我善坊、狸穴辺を選んだのかもしれない。いづれにしても麻布内を4回も転居を重ねながらも、位置的には飯倉片町辺からほとんど動かなかった 転居には某かの理由があったものと想像される。






参考文献
・鳴滝紀要−シーボルト記念館
・ふぉん・しいほるとの娘−吉村昭
・シーボルト日記・再来日時の幕末見聞録−石山禎一・牧幸一訳 ・シーボルト、波乱の生涯
・東京市及接続郡部地籍地図−1912(大正1)年発行
・東京市及接続郡部地籍台帳−1912(明治45)年発行
・シーボルト父子伝−ハンス・ケルナー
・ジーボルト最後の日本旅行−アレクサンダー・シーボルト
・近現代沿革図集−−港区郷土資料館




レファレンス協力
・シーボルト記念館
・大洲市立博物館








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177.幻の山水舎ラムネ瓶
      
<戦前の山水舎ラムネ瓶>
画像提供:尚nao.氏
<戦前の山水舎ラムネ瓶>画像提供:尚nao.氏



 今年の夏頃に麻布山地下壕の取材で宮村町情報を探していたところ、ネットで不思議なサイトにたどり着いた。 そのサイトにはラムネ瓶の画像が掲載されていたのだが、よく見ると「山水 子供飲料」と書かれており、 裏には「登録 山水舎」とある。しかし、それでも何で宮村町なんだ?っと考えているうちに、あれ、これって あの宮村町の山水舎さん?っと気がついた。掲載月日が2008年4月4日。あれ?今年だ。そして記事を読むと なんと、現在は造られていない山水舎ラムネ瓶が発見されたいきさつが書かれていた。

記事によると、

砂の中から壜底が顔を出していた。どうせ欠片だろうと思いながら蹴飛ばすと、 ボロリと壜が姿を現した。〜

とあり、神奈川県横須賀市のとある海岸を散策中に、偶然砂の中から顔を出していた物のようである。 その後発見者の尚nao.氏は山水舎に連絡を取って取材し、瓶の詳細を山水舎社長のS氏から聞いた顛末が記されていた。  この記事を読んでさっそく当方のネタとして使用させて頂く許可を取ろうとブログ内を探したが、残念ながら 尚nao.氏のメールアドレスは記されておらず、さらに調べるとGoogleのキャッシュにこのブログの元ページが入っており そこには氏のメールアドレスが記されていた。早速連絡を取ったが、残念ながら氏からのお返事は頂けなかった。 これは良くあることなのだが、特にキャッシュに入っているサイトなどは現在は更新されておらず、連絡先も 現在は使われていないものがほとんどなので、「無理もない」っと、しばらくは忘れ去っていた。

夏が終わり9月半ばの麻布の秋祭りの頃、御輿の取材で麻布を訪れたおり、いっしょに巡回することにしていた 同級生のK君が急に御輿を担ぐ事になった。そこで地元宮村町の御輿にくっついて十番〜六本木ヒルズ〜宮村町内 〜麻布氷川神社〜パティオと廻って町会のお神酒所に戻ると、ただくっついて廻っただけの私たちにも振舞い酒が 供され、遠慮しつつも?ありがたく頂戴していた。するとそこに、宮村町会長でもある山水舎社長が見えたので、 この際とばかりに「麻布山地下壕」の取材を御願いしたところ、快くお受け頂いた。

後日山水舎にお伺いし、地下壕の貴重な体験を伺ったあとに、サイトに記されていた瓶の話と画像をお見せしたところ 「ああ、この方なら連絡があったよ」っと、覚えておられた。そのときに伺った山水舎社長S氏のお話しは、

      
<戦前の山水舎ラムネ瓶>
画像提供:尚nao.氏
<戦前の山水舎ラムネ瓶>画像提供:尚nao.氏
 氏の祖父が 横浜のラムネ工場を見学し、帰宅後に自分も起業しようと当時湧き水が 豊富であった当地に1901(明治34)年工場を設立され、映画館、軍など にも納品していた。 そして関東大震災当時は麻布辺はあまり被害を受けなかったが、 それでも半壊や損傷家屋などもあり、その罹災者に無料でラムネを配った 。

 その後、山水舎のラムネは大繁盛となり、近隣主婦のパートさんなどを雇用して 夜を徹してのフル回転操業も 行っていた。しかしやがて100社以上の類似商品が出回り、経営には ご苦労もされたようで、特に戦時中は砂糖の不足から開店休業状態となり 昭和20年には罹災して工場内に大量にあったラムネ瓶も、高温で解けて 塊になったとのこと。終戦後、その処理に困り土中に埋めたが、数年後、 解けたガラスが売買できる事を知って、残念がった。とのこと。 戦後も営業は継続されたが、1960年代新たに日本に進出してきた コカコーラ芝浦工場を見学し、その生産能力と冷蔵設備付きの販売機を見て 太刀打ちできない事を悟ったという。山水舎もラムネ以外にオリジナルコーラ なども販売したようだが、ついに廃業を決意された。ラムネの販売は昭和36年 頃に打ち切った。ラムネ瓶は戦前しか生産されていない。そして戦後業者に引き取って 貰ったので現在手元には1本も残されていない。 また、この工場倉庫跡に1976(昭和51)年に寺山修司の天井桟敷館が渋谷から移転した。

などと伺った。
 これらをまとめて早速DEEP AZABUへの掲載をと思ったが、やはり瓶の画像がないと リアリティがないと考え直し、ラムネ掲載を再び封印してしまった。
そして昨日、ラムネ瓶が掲載されたブログを久しぶりに訪問し、画像を見ているうちにやはりどうしても あの瓶を掲載したいの思いから、ブログに書き込んでみた。するとその日の中にブログ管理者で瓶拾得者の尚nao.氏 から連絡があり、快く転載の御許可を頂いた。(最初からそうすれば良かった..(^^;) 瓶は昨年夏(2007年)氏がよく訪れる海岸で拾われたそうで、

 昔捨てられた古い陶器やガラスの欠片が落ちているので、興味を持って よく歩いているとのこと。発見した日は台風の影響の強い雨が降った後で海も荒れていた ので、こういうときは、雨や波で海岸や海底から埋まっていたものが現れることが多い。とのこと。また、 ラムネ壜など、昔のガラス壜で海岸に捨てられたものは、割れてしまっているのがほ とんどで、まず完品であること自体が珍しいこと。しかも、あのように文字のエ ンボス(浮き彫り)があり、滑り止めと思われる細かい凸凹があるなど、手の込んだ 作りをした壜はかなり古いものである可能性が高く、拾い上げたときにこれはすごい ものだと直感した。

      
<戦前の山水舎ラムネ瓶>
画像提供:尚nao.氏
<戦前の山水舎ラムネ瓶>画像提供:尚nao.氏
と、頂いたメールに記されてあった。ただ街を何気なく歩いている私などから見ると、 砂の中からダイヤモンドを見つけるのと同じくらい至難の業にみえる瓶発見も、尚nao.氏の勘と経験に基づいた 物であることが伺える。  何はともあれ、瓶はすくなくても60年以上の歳月を経た物と推測され、発見された三浦半島西海岸まで 辿り着いたいきさつを調べることは不可能であることがわかった。もし瓶が麻布から流失したと 仮定すると、
宮村町→宮村細流→十番大暗渠→古川→東京湾→相模湾
となり、膨大な距離を旅したこととなる。しかし実際の可能性を考えると、海軍に納品された 瓶が横須賀方面で使用され、相模湾まで流れた。とする方が現実性があると思われる。そして、 その瓶が過ごした歳月を想像してみると、「瓶の存在自体が過去からのメッセージ」との思いから、 なんともロマンチックな思いにかられるのは私だけではないと思う。


 ※この話には後日談があり、拾得者の尚nao.氏が最初にネットで山水舎の連絡先を確認したのは普段懇意にさせて もらっている「麻布十番未知案内」サイトだったこ事が分かり、な〜んだ、知らなかったのは私だけか!と ショボクレました(^^; 

最後になりましたが、文字通り砂の中から「麻布」を掘り起こし、画像と本文転載を快くお受け下さったhiroimonoブログ管理者の尚nao.氏の 、この瓶を眺めながらニンマリなさっているお姿を想像しつつ、お礼申し上げます。ありがとうございました。

hiroimonoサイト「山水 子供飲料」はこちらからどうぞ。











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178.宮村Valley−宮村新道




 
      
宮村Valley
宮村Valley
      
@新道〜狐坂(大隅坂)
1862(文久2)年
宮村@新道〜狐坂(大隅坂)<BR>1862(文久2)年
      
A新道〜狐坂(大隅坂)
1887(明治20)年
A新道〜狐坂(大隅坂)1887(明治20)年
      
B新道〜狐坂(大隅坂)
1933(昭和8)年
B新道〜狐坂(大隅坂)1933(昭和8)年
      
C新道〜狐坂(大隅坂)−現在
C新道〜狐坂(大隅坂)−現在
   
夕暮れの狐坂
夕暮れの狐坂
 宮村町狸坂下から狐坂(大隅坂)登り口近辺 まで(現在の港区元麻布二丁目、三丁目の境界)を里俗に宮村町字宮村新道(または新道)といった。 この地域は正面に大隅山山塊、南に麻布山山塊、北に内田山山塊に囲まれた 谷間の道で、まさに「宮村Valley」である。

「文政町方書上」は、

町内西の方を里俗に新道とも大隅山とも唱え申し候。この儀は、同所に お役名知れず渡辺大隅守様お屋敷これあり候。これに右よう相唱え候。 その後、上り地に相成り、貞享三寅年お賄組屋敷に相渡り申し候。
また新道から西に登る坂を、
右同所一か所新道西の方南の通りにこれあり、里俗狐坂と唱え申し候。
と記している。

 近代沿革図集には江戸期〜1924(大正13)年までは現在の坂に沿って大隅山側に さらにもう一つの坂がみえる。しかし、1933(昭和8)年の地図ではこの坂は消滅している。 もしかしたら、この二本の坂は、一方が「大隅坂」、さらに他の一方が「狐坂」 であった可能性も否定できない。

・「三」がキーワード?
字域はほぼ宮村で所属も宮村町だが、他町会との接点が
・狸坂に面した南側坂下までは一本松町
・狐坂登り口付近から上は三軒家町
にあり、
@宮村町
A一本松町
B三軒家町
の三町が入り組んでいる。 また、
@内田山
A大隅山
B麻布山
の三山に囲まれ た谷地(Valley)でもある。そしてその三山には、
@大隅山と内田山のぶつかる山裾を流れる長玄寺池水流
A麻布山と大隅山のぶつかる山裾を流れるがま池水流
Bそれらが合流する宮村水流の三水流

 狸坂下は長玄寺裏手の池を源とする長玄寺池水流と がま池を水源とするがま池水流の合流点で、ここ で一つとなった宮村水流はさらに、竜沢寺の先で十番通りを北に横切り、 吉野川(芋洗坂水流)、ニッカ池、原金池方面から流れる細流と合流して 十番通り北側を通りに沿って東進し現在の浪速屋付近で右折して本通り を流れる川(十番大暗渠)となって網代橋を越え古川に流れ込む。 この狸坂下合流点を「文政町方書上」は、

石橋一か所 渡り長さ四尺 巾三尺 町内西の方新道境に横切り下水の上にこれあり
と書いており、宮村町内で唯一の石橋があったことが記されている。

谷道から尾根道へつなぐ坂を歩くと武蔵野台地の最先端部を感じ、「あざぶ」の語源の一つとも考えられる 「崖地の辺の意」また、続地名語源辞典による「東京都港区の麻布は麻の布ではなく当て字で意味は不明だが 「日本アイヌ地名考」の山本直文説ではアイヌ語残存地名でasam(奥)の意で東京湾が広尾、恵比寿まで入り込ん でいた時代につけられた名との説なども宮村新道付近では納得のいくものに思える。

 お伝えしてきた狐坂だが、実はこの坂の中腹にある市谷山長玄寺あたりから見る夕暮れの東京タワーはたいへん美しく、 私の気に入った場所でもある。私が少年であった昭和40年代前半、東京タワーはどこからでも見えた。しかし、最近は 東の方向にはビルが建ち並び、へたをすると坂上からも見ることが出来なくなってきた。そんな折、 数年前に映画「三丁目の夕日」のポスターを目にして以来、宮村町に行くと必ず立ち寄るスポットとなった。 余談だが、少年期にはやはり坂上などで夕暮時に赤くなった富士山も見ることが出来たが、こちらはほとんど絶望的な状況となっている。





関連項目
・宮村町な店
・麻布な涌き水
・狐坂
・狸坂
・渡辺大隅守
・麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報)
・宮村町の千蔵寺
・内田山由来
・がま池
・アサップル伝説













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179.宮村町の川端康成



      
新道・本光寺近辺
新道・本光寺近辺
1926(大正15)年文芸時代1、2月号で伊豆の踊子を発表した27歳の川端康成は同年3月31日に伊豆湯ヶ島から上京し、その足で麻布宮村町 大橋鎮方に寄宿する。場所は新潮日本文学アルバムの裏表紙に掲載された手書き地図を見ると宮村町新道狐坂下界隈のようだが、 おそらくかなりの年月を経た後に回想しながら書かれた地図のようで不明瞭な部分があり断定は出来ない。しかし、その場所は長玄寺下あたりか 狐坂から宮村坂(宮村坂は昭和2(1927)年に開通しているので、1926(大正15)年当時はまだなく行き止まりの路地であった。)方面 に入ったあたりだと推測される。

当時の部屋の様子を「伝記 川端康成」は、川端が「見もせずに2月から借りていた」部屋らしいとしながら、

白木屋で枕と寝間着を買ひ、バスケットと風呂敷包みと「古雑誌など詰めしサイダア箱」だけをタクシイに積んでの下宿入り
と記しており、また、川端はその日の日記に、
幽霊と地獄にでも平気で住み得ると思ふが、僕平常の覚悟なり。何時にても飛び去り得るといふか、僕の唯一の条件なり。
などと書き、また「貸蒲団にもぐりこみ」というような無造作な下宿ぶりを記している。

しかしこの文章で書かれた幽気でも感じたのか、複数の川端康成関連の年表を見ても、4月には市ヶ谷左内町26にある菅忠雄の家に 移転し、管の留守を預かっていた松林秀子との生活を始めた事が記されている。よって川端の宮村町生活は残念ながら、数日から 長くても数週間であったと思われる。
      
川端康成仮寓図
川端康成仮寓図




















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180.宮村町の正念寺



      
正念寺があったビオトープ宮村池
(元麻布三丁目緑地)
正念寺があったビオトープ宮村池<BR>(元麻布三丁目緑地)
前回、前々回とお伝えした「宮村新道」だが、その中に現在「ビオトープ・宮村池(正式な名称は「元麻布三丁目緑地」)」 と呼ばれる小さな池がある。この池は港区が自然回復事業の一環として取組んだ、身近な野生動植物のための生息空間。とのことで 池の創設時期とちょうど同じ頃に「がま池」のマンション改築工事が行われていて池の保全が問題視されていたことから「ミニがま池」 とも呼ばれている。

このビオトープ・宮村池のある場所は、明治期までは「正念寺」という寺院があった。 浄土真宗・本願寺派の勝田山・正念寺は、元地の築都郡勝田村(現横浜市都筑区勝田)から1752(宝暦2)年宮村町に移転してきたが、 幕末の1863(文久3)年、清河八郎暗殺事件に関わりをもつこととなった。

一の橋際で暗殺された清河八郎の同志、石坂周造が遺体から首を刎ね、 山岡鉄舟のもとに届けた。そして山岡は密かに首を傳通院で埋葬してもらうが、胴体は路上に打棄てられたままだったので 柳沢家により無縁者を葬る宮村町の正念寺に葬られた。これは当時の決まりで武家門前の死骸はその屋敷主が責任を持って葬るものとされていたためで、 これにより暗殺された清河八郎の胴体はこの正念寺に葬られることとなった。
この柳沢家は第五代将軍綱吉の贔屓で小姓から大老格にまで出世した柳沢吉保が起こした家で、この時の功により松平の姓を許され幕末期の地図にも 吉保の末裔を「松平甲斐守」と記している。 余談だが、ヒュースケン暗殺事件に関与したといわれている清河八郎が、ヒュースケン襲撃地点である中の橋北詰先(現在の東麻布商店街入り口付近) からほど近い一之橋際で暗殺されたのも、何か不思議な縁を感じる。 そして、維新後に寺は移転し無縁仏の所在も不明となった。 これは、1903(明治36)年5月14日茨城県久慈郡金砂郷村久米(現在の茨城県常陸太田市久米町20-1)の「願入寺」が寺号のみとなっていた 「正念寺」を東京市の許可を得て移転し、以降正念寺と名乗ることになったためである。

 
      
江戸末期・1862(文久2)年の正念寺近辺
江戸末期・1862(文久2)年の正念寺近辺
      
江戸末期・1828(文政11)年の一之橋近辺
江戸末期・1862(文久2)年の正念寺近辺
しかし、1912(明治45)年浅草伝法院で正四位を追贈された八郎の五十年祭を営んだ時、祭典に列座した一老人の談話により 判明した。老人は麻布霞町の柴田吉五郎で、十一歳のときに八郎暗殺の現場を見た一人であった。 その時には、遭難者の首は 未だ着いていたとのことである。 幾月か経って吉五郎は、遭難者が 清河八郎という偉い人であるという事、並びに屍骸は 柳沢家の手で 麻布宮村町正念寺に葬られたという事を聞き知った。

その後、正念寺は 明治二六年十月に廃寺となり、その寺籍は同町長玄寺に合併された。其の時に柴田老人は檀家総代として万事を処理し、 無縁の白骨凡そ三万を、下渋谷羽根沢の汲江寺に移葬して無縁塚を建てた。 八郎の遺骨もその一部分となっているので、この話を聴いて八郎の遺族斉藤治兵衛は、 四月二十日に汲江寺を訪れ、その塚の土を掘って甕に納め、之を伝通院境内の墓石の下に葬ったといわれる。





関連項目
・清河八郎暗殺

・ヒュースケン事件

・続・ヒュースケン事件

・浄土宗本願寺派 正念寺(外部リンク)

・十番未知案内・生き物の生活空間Biotop(ビオトープ)(外部リンク)














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181.麻布さる騒動−その1



ちょうど10年前の1999年初夏に麻布で野生と思われる猿が逃げ回ったことをご記憶の方も多いと思う。 今回は当時書いた記事を加筆・訂正してご紹介。

    八王子〜渋谷

  • 1999(平成11)年6月08日−八王子で野生と思われる猿が住宅街で目撃される
  • 1999(平成11)年6月10日−国立で目撃される
  • 1999(平成11)年6月11日−府中で目撃される
  • 1999(平成11)年6月12日−調布で目撃される
  • 1999(平成11)年6月13日−祖師谷で目撃される
  • 1999(平成11)年6月14日−代田で目撃される
  • 1999(平成11)年6月15日−北沢、目黒、渋谷で目撃される








麻布

  • 1999(平成11)年6月16日西麻布に出没その後、外苑西通りを横断中に車と衝突!ケガ。
  • 1999(平成11)年6月16日読売新聞夕刊3面に「黄色い声、サル逃げ回る」との見出し。

  • 1999(平成11)年6月17日読売新聞朝刊1面に「西麻布サルの大捕物」との見出し。
  • 1999(平成11)年6月17日猿捕獲の専門家「猿田氏」が捕獲作戦に参加しかし失敗。

  • 1999(平成11)年6月18日南麻布フランス大使館(旧徳川邸)の近くに現れ、
    朝食にハムを食べていたのが目撃さた。

  • 1999(平成11)年6月19日フランス大使館付近に引き続き出没。

  • 1999(平成11)年6月20日麻布グランド、麻布高校、桜田神社付近に出没。

  • 1999(平成11)年6月21日六本木交差点で目撃される。ハ−ドロックカフェ付近の民家の屋根で目撃。
  • 1999(平成11)年6月21日鮨屋の前を通る。
  • 1999(平成11)年6月21日幼稚園の「びわ」を食べた。
  • 1999(平成11)年6月21日東洋英和を通りぬけ、おたふく坂方面へ逃走......。

  • 1999(平成11)年6月22日読売新聞夕刊3面に「都心サル気なし?」との見出し。

  • 1999(平成11)年6月29日読売新聞朝刊3面に「部屋のぞく六本木サル−小4パチリ」としてアメリカンスク−ル4年生の男児が近所の知人宅に サルがいると聞きいて行き、窓越しにバナナを持ったサルの撮影に成功したという写真付きの記事が掲載。

  • 1999(平成11)年7月1日狸穴、飯倉に出没。午後1時過ぎに飯倉小学校に現れ,ほとんどの生徒が目撃。

  • 1999(平成11)年8月1日読売新聞朝刊に「都心のサルに子ネコの友達」と題して、
    土着したサルが東麻布の民家で子猫と遊ぶ様子が写真入りで紹介される。

  • 1999(平成11)年8月15日読売新聞朝刊に「麻布のサルついに御用」とあり、14日正午過ぎ「東京アメリカンクラブ」
    のオフィスに入りこんだところを、連絡を受けた上野動物園の飼育員により捕獲されたとの事。
    また、捕獲されたサルはメスで一時園内の動物病院に収容され、
    野生に戻すかを検討すると記事は書いている。

  • 1999(平成11)年8月17日「朝日新聞朝刊には麻布のサル、多摩の動物病院に移送 」 の見出しで、
    14日捕獲された麻布のサルが、上野動物園から東京都福生市の多摩動物総合病院に車で移されたとの事。
 しかしこの病院での滞在も一時的で、群れを確認するためのDNA鑑定などができる場所に移されるようだ。以下は記事の抜粋
「野生動物の保護を担当する東京都労働経済局は、「基本的には元いた山に戻したい」というが、処遇は決まっていない。
 野口泰道・同病院院長(67)によれば「逃亡中にエサをもらったため、野生に帰すのは難しい。
かといって、野生のサルを動物園には入れられない」。再び自由を獲得して「サル者は追わず」とはいきそうにない。」
との記事。またYahoo!掲示板「麻布倶楽部」274 番、タイトル「東京の猿」の書きこみに、
” 麻布猿、結局「野生にかえせない東京の猿」との判断で 都内の学校などで飼われる事になったそうです。”
とあり、本当ならば投稿者のmiss_tambourineさんの仰る通り、嬉しい限りです!




麻美さんその後

麻美さんが高尾山近辺に住んでい事は以前から知っていました。しかしこんな形で彼女と初デートになるとは.......。

1月なかばのある土曜日の昼前、仕事で聖蹟桜ヶ丘に向かった私は前日深夜まで飲んでいた 疲れから京王線に乗り換えるとぐっすり寝込んでしまいました。どのくらい時間が経ったのか、眠りの邪魔をして声が耳に入ってきました......くち......おさんくち......たかおさんくち......高尾山口、、、、、ひぇ−高尾山だ!
眠っているうちに電車は降りるべき聖蹟桜ヶ丘を通り越して終点の高尾山口 に着いていたのでした。車中で1時間あまりも爆睡してしまった事を今更 後悔しても始まりません。とB型の性格が幸いして、せっかくだから名物の蕎麦でも食べて行こうと歩き出すと、土産物屋にならんだ饅頭に「麻美饅頭」と書いてあります。あさみ、、、、、アサミ、、、、麻美?どっかで聞いた名前です。小林じゃなくて相楽でもなくやっとの事で、そうか!とDEEP AZABUの掲示板の書き込みを思い出した私は蕎麦の事もすっかり忘れて目の前にあった駅に直行し、発車直前のケ−ブルカ−に飛び乗りました。滑り込みセーフでケ−ブルカ−に乗り込むと車内の人がいっせいに私を見まわします。なぜ?何故?ナンデ?最初は何故か見当がつかなかったのですが、しばらくすると理由が納得出来ました。皆は登山にふさわしいカッコなのに私だけ背広でアタッシュケースを持ってます。うわー、カッコわりー!これじゃ猿に物を売りにきたセールスマンです。気恥ずかしい思い出下を向いていると勾配がとんでもなくきつくなり車内アナウンスでこのケ−ブルカ−は日本一の勾配を登ると言ってます。 以前、飛行機が離陸した直後にキモチ悪くなってしまったほど高所恐怖症のわたしは座席にしがみついてしまいました。10分ほどの我慢で山頂に到着です。 ケ−ブルカ−をヨタヨタと降り、まっすぐに「さるのくに」へ直行、入場料500円を払って私がそこで見たものは..........?(次回に続く!)







<追記2009.04>

 上記「麻美さんその後」を書いたのは1999年12月頃ですが、続編を書こうと思いつつ延期していたところ、パソコンがクラッシュして麻美ちゃんの画像を含めたすべての記録を紛失してしまいました。 当時私が高尾山で見た麻布さるの麻美ちゃんは、動物園の環境になじめずに他の猿から隔離され一人?で檻に入れられており、その寂しそうな顔がとても印象的でした。 次回はその後の麻美ちゃんについて書かれた文献を追ってご紹介します。









182.麻布さる騒動−その2



 1999年の麻布猿騒動は、テレビなどで連日報道されていたことをご記憶の方も多いと思う。また新聞にも毎日のように取り上げられ、 現在でも各紙の縮小版を見れば当時の過熱ぶりを改めて確認することができる。しかしこれらの報道はきわめて一過性のものであり、 ドキュメンタリーとして読み返すとその情報の少なさからの全体像の不明確さに改めて気づかされる。もちろん速報性を重視した新聞記事や ニュース番組には何の責任もない事は百も承知しているが.....。そのような中で「畜産の研究」という専門誌に掲載された 日本獣医生命科学大学の羽山 伸一准教授「野生動物と人間の関係調整学−東京麻布サル事件」という論文は唯一騒動の真相を伝える貴重なドキュメンタリーであるといえる。 論文は二部構成で、

第一部では、
  • 都心にサル現る
  • サルが都会にいてはいけないか
  • サルは山の動物か
  • 自然に対する時間軸
  • 棲み分けの思想
  • 緑の回廊(コリドー)


第二部では、
  • 麻布のサルは野生か
  • ペット逃亡説
  • 野生サル遺棄説
  • なぜ由来が問題なのか
  • DNA鑑定
  • 出身はアルプス
  • タライ回しにされる動物たち
  • 野生動物シェルターの設置を!
と構成されている。残念ながら書籍の使用許諾が取れていないので内容の詳細は紹介できないが、 この論文は後に「野生動物問題」と言う書籍の中に収録され港区図書館にもあるので興味のある方はご一読をお奨めする。

 高尾山自然動植物園内のサル園に収容され「麻布で捕獲されたことから”麻美”(あざみと読むらしい)ちゃん」と命名されたこのメスのサルは、 当初野生に戻す予定であったという。(東京新聞1999年8/21付によると当初サルは”麻<あざ>”と命名されたようだが、それではあまりにも 可哀想という意見が多くなり結局”麻美<あざみ>”と命名されたという)
しかし捕獲後に診察を受けた「多摩動物総合病院」の「人に慣れてしまったサルを自然に戻すのは無理」という進言により高尾山サル園に引き取られる ことになったという。さらに捕獲時に採集された血液によるDNA鑑定が行われ、麻美ちゃんは南アルプスの遺伝子を持っていることが判明し、年齢は7〜8歳。 人間で言えば二十代前半ほどで東京に来る過程において、また食事の摂り方などから人間の関与が確実視されペットとして飼われていた可能性が高いと結論された。

そして園での暮らしぶりは高尾山の豆知識サイトに掲載されている「麻布ザル アザミ」に詳細が語られているのでご紹介。

(記事引用はじめ)
〜 一般的に4、5歳を超えた大人のサルを別の群れに入れるのは極めて難しい。
人に飼育され、社会的な振る舞いができないサルの場合は一層困難になる。
DNA鑑定で「南アルプス」出身と分かり、ペットとして飼われていた可能性が高いとみられていた。
同園では、アザミをサル山の群れに入れるタイミングを探っていました。
捕獲後、環境の変化によるストレスからか、落ち着きがなく歩き回ったり食欲もなかったそうです。
半年は群れから離れたオリに単独で飼い、次に群れ近くのオリで慣らしたが、オリに近づくオスの
腕にかみつくなどしたため、再び離れたオリに戻しました。このオリでアザミは、母親のない子猿
の面倒を見るなど母性愛に目覚め、ほかのメス4匹ともコミュニケーションが取れていたという。〜

(記事引用おわり)

 前述私が高尾山を訪れたのは1999年12月頃であったが、そこで見た「麻美ちゃん」は群れから隔離され 単独の檻に入っていた。そして檻の中をせわしなく行き来する姿は素人目にも園に馴染んでいるようには見えず、 哀れを誘った記憶がある。しかし時と共に次第に落ち着きを取り戻し園の生活にも馴染んでいった様子が「高尾山の豆知識サイト」 記事からも伺える。そして、4年あまりを過ごした2003(平成15)年、毎日新聞(2003年4/14朝刊8面)は「アザミ サル山デビューへ」 と題した記事で、アザミに母親を失った子ザル「ブルー」が甘えて寄り添っている写真が掲載 されており、紆余曲折の後に園の環境に慣れてきたアザミのサル山での集団生活が近いことをほのめかしていた。 しかし、悲劇は突然やってきた。同サイト記事を再び引用すると、

(記事引用はじめ)
〜同園は改装工事のため、今年6月[※2003(平成15)年]からサルをサル山から移して飼育し、
10月に再びサル山に計30匹のサルを放した際、アザミも群れに入れることにしました。
しかし、アザミはサル山に初めて入った10月6日、オスとのけんかで左腕や足などをかまれた。
致命傷ではなかったが、14日になって敗血症を起こし、急死したのです。

篠裕之園長は「猿は群れの中で社会性を身に着けるものだが、アザミにはその経験がなかったのだろう。
サル山に入れる最後のチャンスと思ったが、あだになってしまった」と話している。(毎日新聞) 〜
(記事引用おわり)

記事に書かれたとおり、残念ながら麻布サルの麻美ちゃんは2003(平成15)年10月14日死亡していたことが判明した。 毎日新聞2003年12月2日付朝刊8面には「サル社会なじめぬまま...」と題して麻美ちゃんの死亡記事が遅ればせながら掲載されている。 そしてその記事の横にはカメラをまっすぐに見据え、穏やかながらも私たちに何かを問うようなまなざしの麻美ちゃんの画像が掲載されている。 この画像を見ているとサル騒動から10年目となる今年、南アルプス生まれのサルが何故高尾山で生涯を終えなければならなかったのか?と改めて疑問を感じる。 そして「人間と野生動物の関わりを改めて見直す」という問題を解決しない限り、再び麻布近辺に 野生動物が現れることが「今後ともない」とは言い切れない。

※麻布でサルが逃げ回った翌年の2000年7/15付読売新聞朝刊には有栖川公園近くの盛岡交番脇にペットとして 飼われていた「スローロリス」という種類のサル4匹が遺棄されているのが見つかり、その後の2005年5月には 広尾近辺で見つかったサルが北に逃亡した様子が新聞紙上に記載された。


★1999(平成11)年の出来事
・世界人口、60億人突破
・5月アメリカ合衆国オクラホマ州・オクラホマシティを巨大な竜巻が襲う
・7月スター・ウォーズ エピソード1が日本で公開
・8月トルコ西部地震
・9月 新幹線0系電車が東海道新幹線から姿を消す
・9月台湾中部地震
・9月東海村JCO臨界事故発生
・だんご3兄弟がヒット
・10月首都高古川橋付近でタンクローリーが爆発
・12月ミレニアム・カウントダウン

※文中の高尾通信の記事使用を快くご許可下さったサイト管理者様には改めてお礼を申し上げます。

引用部分出典:高尾山の豆知識サイト









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183.麻布の歌舞伎公演−南座と明治座



    
現在の「末広座」跡
現在の「末広座」跡
    
明治座公園・左團次の名が見える
明治座公園
 1923(大正12)年9月におきた関東大震災では多くの家屋が焼失したが、劇場や芝居小屋もその例外ではなかった。 帝劇、新富座、有楽座、明治座、市村座、本郷座、公演劇場、宮戸座、御国座、寿座、中央劇場、開盛座、神田劇場等 が次々に焼失し1921(大正10)年の火事により焼失して再建中の歌舞伎座も震災により再び焼失した。 そのような中で、麻布区本村町153(現南麻布3丁目・レフィナード南麻布付近)にあった活動写真館の「麻布南座」を全面的に改修して 震災後初の歌舞伎公演が行われた。公演は同年10月25日から市川中車、板東秀調、片岡亀蔵などの若手により行われ「熊谷陣屋」「壺坂霊験記」「黒手組助六」 などの演目はどれも初日から大入り満員となった。

 さらに翌1925(大正14)年1月には麻布十番の末広座(現セイフー)がやはり改修の後に「麻布明治座」となった。 麻布明治座は、1月には市川左團次一座の『鳥辺山心中』等 、2月には狂言の『沓手鳥弧状落月』などを上演し大盛況となった。 この時の様子は「増補 写された港区 三(麻布地区編)」P117にも掲載されているが、 「震災後の左團次公演の時は入場者が一の橋まで行列するほどの大繁盛だった」と私も土地の古老から直接聞いた事がある。
またちょうど同じ頃宮村町に居を移していた岡本綺堂が、十番雑記では「明治座」というタイトルで、
 左團次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が初めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが初めであるから、その前景気は甚だ盛んで、 麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るとも無しに たたずんでいるのである。
 私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左團次一座が出演のことも、 又その上演の番組のことも、わたしは疾うから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とか 云うような、新しく勇ましい心持が胸いっぱいに漲るのを覚えた。

と、その様子を嬉しげに記録している。そしてさらに「岡本綺堂日記」12月8日の記述では、

〜木村君から郵書が来て、十番の末広座は明治座と座名をあらためて、来春1月から左團次一座で開場、昼夜二部制で二の替りを出す筈。わたしの作では、信長記 、鳥辺山心中、番町皿屋敷、佐々木高綱、浪華の春雨の五種を上演するといふ。これでは綺堂復興劇とでも云ひそさうである。〜

とあり、震災からの復興に自分の作品が関与することを手放しで喜んでいる。さらに綺堂日記12月25日では麻布明治座公演の入場料が特等三円、一等二円五十銭、 二等八十銭、三等一円二十銭、四等六十銭であったことが記され、自身も書生を使って一等席十六枚を購入させた事が記されている。

翌1925(大正14)年1月3日の項には、
明治座は相変わらずの混雑、殊に万事が不慣れと見えて場内の整理が行き届かず、われわれの席は二重売りがしてあったので、更に面倒。〜

としながらも「なにしろ大入りなのは結構というほかあるまい」とその喜びを表している。

 震災の影響が少なかった麻布の2館は歌舞伎公演の中心となり同年6月頃まで賑わった。 そして6月「麻布明治座」は再び末広座と名を戻し、 南座と共に映画専門館となって歌舞伎劇場としての役割を終えた。 南座はのちに麻布十番(現在の桂亭の場所) に移転して映画館「麻布松竹館」となり、両館共に戦後映画の黄金期には繁盛することになる。






<参考画像>
・震災前の麻布十番商店街−稲垣利吉著(十番わがふるさとより転載)

・昭和初期の麻布十番商店街−稲垣利吉著(十番わがふるさとより転載)


関連項目
・麻布映画劇場
・岡本綺堂の麻布
・森元三座
・麻布十番







スライドショー









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184.麻布白亜館−その1



    
西町インターナショナルスクール
脇の麻布白亜館跡
西町インターナショナルスクール脇の麻布白亜館跡
    
がま池から見た麻布白亜館
右手、煙突の建物−1964(昭和39)年
がま池から見た麻布白亜館。右手、煙突の建物−1964(昭和39)年
 先日、インターネットを巡回して麻布のネタ探しを行っていると、以前からとても気になっていた名前がヒットした。 ヒットした名前は「白亜館」。昭和40年代の前半小学生だった頃の頃の夏休み、例によって私の日課は早朝の「クワガタ捕り」から始まる。特に当時クワガタが多く生息 していた場所はがま池周囲の木立であった。その中の何本かの東側に生えていた木を私たちは「白亜館側の木」とか「麻布白亜館横の木」などと 呼んで、木の場所を特定していた。しかし白亜館が何たるかは知らなかった。このサイトを始めてからも度々「白亜館」についての問い合わせがあったが 名前くらいしかわからず、「実際には無かった店」、「AVANTIみたいに実在しない店」、「伝説としてしか存在しない店」、「会員のみが入れる秘密のレストラン」など周囲の少し先輩の方々に聞いても やはり確かな情報を得ることは出来ず、私にとってまさしく伝説の店であった。そして.....この歳になるまで真実を知ることが出来なかった。

 インターネットで見つけたサイトは元白亜館オーナーシェフで、現在は福島県猪苗代町で開業されているイタリー料理「アンクル」のオーナーシェフ 「アンクル N 」氏のサイトであった。サイトの記事によると白亜館は1966(昭和41)年から1977(昭和52)年頃まで麻布がま池付近に実在したようで、その間に、
マキシムのシェフとして来日中のムッシューミルゴンに個人的に師事。
同氏からフランス料理の新しい流れとともにイタリー料理の基本を学ぶ。
なおミルゴン氏は帰仏後コートダジュールでイタリア料理店を開業。

その後、

1977(昭和52)年頃、芝の第24森ビルに移転。
1980(昭和55)年より1997(平成9)年、長野県斑尾高原にてイタリー料理アンクル経営。斑尾店は現在休業中。
1997(平成9)年4月 福島県猪苗代町にイタリー料理アンクル開業。今日に至る。
とのこと。

ダメモトでアンクル N 氏に麻布にあった白亜館のエピソード等をお教え頂いたい旨連絡すると、ほどなく氏から 詳細なエピソードを満載したメールを頂戴し、正直、私は感謝しつつ躍り上がった。 このコーナーは基本的に私が書いた文章しか掲載しないのだが、今回は私の稚拙な文章に変換するよりも、ご本人が語られる生の文章を氏の許諾の元に 掲載させて頂く。

それでは.....幻の白亜館の扉が開きます。



〜アンクル N 氏からのメール〜

ご返事が遅くなりました。 始めにお断りしなければならないことがあります。残念ながら、手元に白亜館に関する資料が殆んど残っていません。そこで、おぼろげな記憶を頼りにご質問に お答えすることに なりますが、何分かなりの時日を経て、70歳という年になったこともあり、どこまで正確に お答え出来るか、甚だ心細い次第です。

住所ははっきり記憶しています。

港区元麻布2−10−4   その昔は 港区麻布本村町35番地
本村町の時代の電話番号 45−1750   白亜館開業の頃は451−1750
白亜館開業にあたって 電話を数本増設しましたがその番号の記憶はありません。

開業時自分が28歳(※1938(昭和13)年のお生まれか?)だったという記憶があるのですが、さて何月に開店したのか全く記憶がありません。誕生日が12月13日なのですが、 それ以降年の瀬が迫っての開店は少々不自然なので、多分昭和42年の開業ではなかったかと、随分あいまいなご返事になります。 10年ほどたってこの場所での営業の継続が出来なくなるという事情から芝の 第24森ビルに移転するハメになるのですが、その時期についての記憶もすこぶる曖昧 です。 前後の事情から勘案し、多分昭和52年まで麻布で営業を続けたのではと推測するのですが、確証はありません。 白亜館の名付け親は故保富康午氏。谷川俊太郎氏とともに第2次世界大戦後に現れた 2大詩人と称された現代詩の詩人で、放送作家としても高名だった方です。何気なく名付けたようでも、由緒ある白亜の洋館を そっくり使った様を見事に3文字に凝縮して下さったと今も深く感謝しています。 ちなみにその建物は昭和一桁の頃、女流画家が建てたもので、何故か建って間もない 頃に売りに出されたのを私の父が買ったのです。買値は6万円だったと聞いた記憶があります。その女流画家、なかなかユニークな方だったように推測します。 というのには訳があります。彼女の寝室は2階にあり、1階にあるご主人の寝室と螺旋階段で繋がって いました。階段の最上部つまり奥様の寝室に入るところにドアーがあるのですが、内側 だけに鍵があり、施錠されると外、つまりご主人側からは決して 開かないという仕掛けになっていたのです。 彼女の寝室の隣2階中央部に大きな立派な黒書院の造りの和室があり、そこが彼女のアトリエだったとのこと。どうやら日本絵の画家だったらしいのですが、 名前すら判らず残念の限りです。

白亜館に改造するとき、彼女の寝室は個室に、黒書院はそっくり残してペルシャ絨毯を敷き松本民芸の大きなテーブルを置いて、竜馬が行くみたいな個室にしました。ご主人の寝室はバーに変身しました。 バーのピクチュアーウインドーからは噴水のある池とその背後に聳えるヒマラヤ杉の大木がみえました。バーに繋がる中央の食堂部分からはガマ池が見下ろせ、 食堂と一体化したラウンジにはギタートリオのボサノバが流れている。そんなレストランを想像して見て下さい。 実は白亜館を開業するにあたって、一つの具体的なイメージがありました。ロンドンのクラブです。単なるレストランではなく、各界の名士たちが集う社交場 を目指したのです。

そんなところから会員制のクラブとしてスタートし、そのスタンスは麻布の地を離れるまで不変でした。 入会金は3万円、年会費その他一切不要。今考えると唯のような安さですが、このシステムを理解してもらうにはとんでもない年月と労力を必要としました。 初めての人にシステムを説明し入会を勧めると、必ずといってよいほど返ってくる言葉がありました。会員になるとどんな特典があるのか?というものです。 特典なぞなにもない、なにしろ会員でなければ入店出来ない、という説明に、皆一様に怪訝な面持ちでした。 当時、流行っていた会員制クラブというのは、別名ボトルクラブと称されたものでした。何がしかの入会金を納め、僅かな会費を毎月収めると自分で持ち込んだ ボトルをキープしてくれ、毎回の利用料は無料といった類のものでした。

年月の経緯とともに、明確になったことですが、アイディアが、明らかに早すぎたのです。 だから、経営的には苦労の連続でした。でも、東京では稀有な庭付き一軒屋、ちょっと秘密めいた立地、などが評判となり、かなり著名な方々に会員になって頂き ました。所謂スターと呼ばれる方にはとてもお世話になりましたが、中でもご愛顧頂いたのM.MさんやY.Sさんを筆頭に女性の大スターと呼ばれるほどの 方々、いらしてない方をおもいだすのに苦労するくらいです。その割りに男性の大スターにはいらしたことのない方がかなりいます。 数年前テレ朝だったかと思います。有名人が昔を懐かしんで、かってあった名店の思い出を語るといった趣の番組があり、D夫人が白亜館の思い出を熱っぽく 語っていました。その中で彼女が、沢山の大スターの集う店で、ご常連といえば例えばI.Yと語っていましたが、それはうそです。実は開店から 間もない頃、Y氏が夜遅く多勢の取り巻きを引き連れて現れました。深夜だったこともあり、べろべろに酔って、かなり傲慢な態度でした。翌日事務所の 方が入会申込書を持って来店されたのですが、その申し込みをお断りしたのです。あまり深く考えずにとった行動でしたが、実はそのことが、業界内に いっぺんに白亜館という名を広めることなったらしいのです。あのYを断ったとんでもない店と言うわけです。それ以来、Yは一度もきていません。 又、D夫人も会員ではありません。 いつしか取り留めないおしゃべりになってしまいました。こんな調子でよければ、又手の空いたときにご連絡いたします。

〜メール転載終了〜



※DEEP AZABU注釈(私の勝手な想像です(^^; )

M.M−現役超大物女優・特技でんぐり返し。
Y.S−現役超大物女優・永遠のマドンナ・ファンは**リストと呼ばれる。
D夫人−笄町生まれの元元首夫人・近年A.Mとのバトルは有名。
I.Y、Y−超大物俳優・**軍団・永遠の大スター。



最後に貴重な内容のメールをお送り頂いたアンクル N 氏に多大な感謝を申し上げると共に、現在もイタリー料理アンクルのオーナーシェフとしてご活躍の氏の ご発展をお祈り致します。そして伝説となった「白亜館」という名前は、暖簾分けした支店「名古屋白亜館」が継承して現在も実在することをお伝えしておきます。



関連項目
・がま池
・麻布七不思議の定説探し













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185.圓朝のくたびれない黄金餅



    
南麻布・絶江坂
南麻布・絶江坂
当サイト「落語」コーナーでも紹介した落語「黄金餅(こがねもち)」は有名な噺なのでご存じの方も多いと思う。

 下谷山崎町の裏長屋に住む金山寺味噌売りの金兵衛は、このごろ隣の住人願人坊主西念の具合が良くないので、 なにかと世話を焼いている。 ある日、あんころ餅が食べたいと言い出した西念に、餅を買ってきてあげると....。 何と言ってもこの話のメインは、死んだ西念を漬物樽に詰めて、下谷から麻布絶江釜無村の木蓮寺まで運ぶくだり。 麻布内を飯倉片町〜お亀団子〜永坂〜麻布十番〜大黒坂〜一本松〜絶江釜無村とたどる。木蓮寺は、架空の寺だが、 落語では、荒れ寺の象徴らしく「悋気の火の玉」にも谷中木蓮寺として登場。また麻布絶江釜無村は実在の地名で 後に釜無横丁と呼ばれ、現在の南麻布の一角にあった。話の最後に取り出した金で、目黒に餅屋を開いたとされる話 は実話だと言われる。 悪銭が身に付いた?珍しい話で、”落ち”は無い。
 コーナーでは古今亭志ん生が演ずる噺を元に筋を書いたが、これは黄金餅といえば志ん生といわれるほどの名演で あったため。また、志ん生の黄金餅が下谷から麻布絶江釜無村の木蓮寺までの「道中付け」と呼ばれる長い道のりを 町名や土地の名物などを織り交ぜながら一気に話す妙技が好評であったため、名人志ん生の独断場であり十八番(おはこ) と呼ばれる所以でもある。そして「道中付け」の最後木蓮寺に到着したところで「ずいぶんみんなくたびれた。あたしもくたびれた。」と独自の 解釈を挿入し爆笑を誘う。

★「道中付け」
 下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、 そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、 新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、 日本橋を渡りまして、通四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、 新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を 抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という 団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出まして、大黒坂を上がって一本松から、麻布絶口釜無村の 木蓮寺へ来たときにはずいぶんみんなくたびれた。...あたしもくたびれた。


 この噺は四代目橘家圓蔵が得意としたが、志ん生は四代目五明楼玉輔から習ったとされ、後に自身の十八番(おはこ)とするまでに 完成された。しかしこの噺の作者は今日「大圓朝」とも呼ばれる三遊亭圓朝とされ、その筋は現在のものとは大幅に違っていた。

圓朝が明治期にこの話を作った時の筋は、
    
将監橋
将監橋
    
貧窮山難渋寺のモデル?市谷山長玄寺
長玄寺は宮村町狐坂にある。
貧窮山難渋寺のモデル?市谷山長玄寺
 芝将監橋横の裏長屋に住む金山寺売りの金兵衛が病で苦しむ隣家に住む托鉢僧「源八」の頼みで大福餅を買うと....。 餅をのどに詰まらせて死んだ源八の遺骸を漬物樽に入れ簡単な弔いを済ますと長屋の若い衆6人でかついで麻布三軒家にある貧窮山 難渋寺で焼香を済ませる。ここから先は一人で再び樽を担いで桐ヶ谷にむかい強引に荼毘に付させ〜。
となっていて、芝将監橋から麻布三軒家町までの道行となっていた。これは後年の完成された黄金餅に比べると格段に短い道行であるが、 噺では差配人との会話で、
 差配:「お寺はどこだい?」

金兵衛:「エ、麻布の三軒家なんで。」

 差配:「どうも大変に遠いネ〜」

と言わせており、お棺を担いで歩くには、より現実的な会話となっている。残念ながら圓朝の原作には距離が短いせいか「道中付け」は 入っていないが、あえて付けるなら、

将監橋→芝園橋→赤羽橋→中の橋→一の橋十番暗闇坂下右折増上寺隠居所下(現在「裏麻布st.」と呼称されるらしい道)→狸坂下宮村新道狐坂(大隅坂)麻布三軒家町貧窮山難渋寺(市谷山 長玄寺?)

と、なる。また後年の「麻布絶口釜無村木蓮寺」も「麻布三軒家貧窮山難渋寺」も架空の寺でありながら当時の絶口(正確には絶江だが) 近辺の寺は、「曹渓寺」「竜滝寺」「浄専寺」「円法寺」「西福寺」「延命院」「龍穂寺」などがありモデルとした寺を特定するのは 難しいが、開山絶江和尚や絶江坂などに名を残す「曹渓寺」だとするのが一般的だと思われる(ただし、曹渓寺は江戸期より酒井家、麻布山内家寺坂吉右衛門の墓などがある付近でも有数の大寺院で荒寺のイメージは微塵もない)。これに対して圓朝原作の「麻布三軒家貧窮山難渋寺」 は寺のモデルをはっきりと特定する事は難しい。これは江戸後期の地図には、比較的狭い町域の三軒家町のなかで寺域が見あたらない事による。しかし、唯一東側宮村町境界あたりには 「市谷山 長玄寺(港区元麻布3-5-16)」があり、これ以外には三軒家または三軒家に隣接する寺は見あたらないので、ここでは長玄寺と仮定する。しかし、この寺は山本勘助の孫・観利が市ヶ谷根来坂に開基し、で浅草を経た後の1718(享保3)年 から当地に存在する名刹である。また、侠客金看板甚九郎の墓・ラグーサお玉の墓などがあり明治期には清河八郎も仮葬されていた名刹でもあり、 この寺も荒寺とはほど遠いイメージである。

余談ではあるが、昭和初期の三軒屋町近辺を描いた「榎の木の下に」著者の若宮ケイ氏は自身の出自をこの三軒屋町の由来となる3軒のうちの1軒となる家系と書いている。

 そして圓朝原作の噺には原型と呼べる話があるようで、港むかしむかしという本の中に「小判をのんで死んだ話」として掲載されているこの話は後半部分が大幅に違うが、 吝嗇な老僧が金に未練を残したというところでは明らかに同一であり、もしかしたら実話か?と、疑わせるような内容である。 またこの本にも原典が存在し、その出典は松崎堯臣著「窓のすさみ」だと思われるが、これには落語「芝浜」の原型となると思われる話も掲載されている。 圓朝がこの「窓のすさみ」を参考にしたのは間違いないと思われる。ただし、「窓のすさみ」では個人名は一切特定していないので「港むかしむかし」の底本は他にも存在するものとも思われる。などと探していると麻布七不思議を調べたおりに読んだ1931(昭和6)年発行の「江戸の口碑と伝説」にも「59.小判を呑んで死んだ僧」として同一の話が掲載されていることが判明した。しかしこの本にもさらに底本が存在するものと考える方が自然かもしれない。


噺の比較
事 柄圓朝原作志ん生窓のすさみ江戸の口碑と伝説港むかしむかし
主人公名前金兵衛金兵衛甥なる士良覚の甥良覚の甥
裏長屋芝将監橋横下谷山崎町芝邊芝愛宕町芝愛宕町
隣の住人托鉢僧 源八願人坊主 西念洞家の僧良覚良覚
道中付け
×
×
×
×
道 行将監橋→麻布三軒家山崎町→麻布絶口釜無村
×
×
×
寺までの移動距離
約2.3km
約13km
×
×
×
寺の名前麻布三軒家貧窮山難渋寺麻布絶口釜無村木蓮寺
×
×
×
戒名安妄養空信士
×
×
×
モデルと思われる寺市谷山 長玄寺?日東山 曹渓寺?
×
×
×



 蛇足となるが、圓朝原作もそれ以降の完成された噺も寺が話の終点ではない事はご存じの方も多いと思う。麻布の荒れ寺で住職にいいかげんな お経を上げて貰い、焼き場の切符を貰うと桐ヶ谷へ。桐ヶ谷で隠亡(おんぼう)と呼ばれた死体を焼却する者を脅かして腹だけは生焼けで、朝までに 焼終わる算段をつけると、焼けるまでと新橋まで戻り呑みながら時間をつぶす。そして翌朝まんまと腹の中から金を取り出した金兵衛は、遺骨をその まま置き去りにして逃げ去る。後日その大金を元手に妻を娶って目黒に黄金餅という餅屋を出し、大層繁盛したとされる。





YouTube 志ん生 黄金餅2
YouTube 志ん生 黄金餅2
関連項目

・落語
・小判を呑んだ老僧
・ラグ−サ・お玉
・釜無し横町
・寺坂吉右衛門
・土佐藩麻布支藩の幕末


参考文献

・有朋堂文庫 86 窓のすさみ 武野俗談 江戸著聞集
・筑摩書房 明治の文学 第3巻 三遊亭円朝
・江戸の口碑と伝説 佐藤隆三著
・港むかしむかし
・志ん生古典落語〈2〉黄金餅
・古今亭志ん生(五代目)「古今亭志ん生 名演大全集 1(CD)
・落語名人会(21) 古今亭志ん朝(CD)(13)
・立川談志 ひとり会~第二期~第十六集(CD)















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186.寒山拾得の石像(かんかんさん)



 むかし5.麻布の異石で麻布の「異なる石」をご紹介したが、その異石を取り上げた 「兎園小説」 の中でも其の一として真っ先に取り上げているのが寒山拾得の石像である。

    
寒山拾得像
(高鍋町歴史総合資料館画像)
寒山拾得像
 現在麻布高校となっている地は、江戸時代に上杉鷹山の養子入前の実家でもある高鍋藩秋月氏の上藩邸があり、敷地はがま池に隣接していた。この藩邸内がま池のほとりに 寒山拾得の石像があったという。この石像は天文18(1549)年、富春山永徳寺(宮崎県串間市)に一蘭和尚により安置されたものを江戸時代に 秋月氏が麻布の藩邸に移設し安置した。
そして、この石について秋月家には不思議な言い伝えが残されている。

ある夜藩邸で時ならぬ時刻に「鰯売り、鰯売り」という声が聞こえたので宿直の武士は怪しんで刀で斬りつけた。するとその宿直の武士は急に高熱を 発して苦しんだ。翌朝、寒山拾得の石像の石像を見ると頭から背にかけて刀疵が出来ていた。それ以来、秋月家に異変が起こるとこの傷跡が夜泣きして 知らせたという。
 このように不思議な伝説を持つ石像も前述したように江戸期には滝沢馬琴の兎園小説で取り上げられ、さらに昭和初期の「麻布区史」では麻布七不思議 の一つとして取り上げられている事からも、当時多くの崇敬・畏怖を集めた異石であったことが伺える。

 像は正確に言うと「寒山」と「拾得」という二人の人物の石像で、画像の右の筆と巻紙を持っているの が「寒山(かんざん)」、左側のホウキを手にしているのが「拾得(じゅっとく)」である。この二人はワンペアで画題や名などとしてよく描かれるが、中国・唐時代の伝説的な僧である。寒山は巌窟に住んで詩を書き、拾得 は寺の掃除や賄をしたといわれる。また拾得は寒山の分身とも言われ、二人は奇行が多いが、奔放で無垢な童心を失わず俗世を厭い天台山国清寺に住んだ自由人といわれる。日本では、寒山は文殊菩薩の、拾得は普賢菩薩の化身とされる。

Wikipedia解説-寒山寺

江戸期をがま池のほとりで過ごした石像も明治になると、藩主別荘のあった神奈川県藤沢市片瀬に移設され、さらに大正期には旧領知の 宮崎県高鍋に移設された。最後の当主秋月種英の婦人須磨子はことのほかこの石像を大切にしており、東京に転居する際には高鍋の地元住民に「くれぐれも石像を大切にするように」 との言葉を残している。そして現在も高鍋城址(舞鶴公園)に安置されている石像は、地元で「かんかんさん」と呼ばれて親しまれ、毎年5月10日にお祭りが催されている。

    
寒山拾得像
(高鍋町歴史総合資料館画像)
寒山拾得像
・材質:砂岩
・石像背面の碑文
天文十八年巳酉孟夏下□日
富□山人一□老袖□安置
大工文甫



関連項目
麻布の異石
がま池
麻布っ子、上杉鷹山











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187.シュリーマンの善福寺滞在



 幕末期にアメリカ公使館が設置された事からたびたび歴史に顔を出すこととなる麻布山善福寺だが、 あのトロイの木馬の発掘者であるハインリッヒ・シュリーマンが短期間滞在していたことが「シュリーマン旅行記 清国・日本」 に記載されており、その詳細がわかったのでご紹介。

 シーボルトの総領事ハリス訪問から4年後の慶応元(1865)年6月24日、シュリーマンは清国経由で日本に寄港、横浜で船を下りた。 しかし、当時の江戸は攘夷の風が吹き荒れ、アメリカを除く各国公使なども横浜などに滞在していたので、江戸市街は外国人にとって 非常に危険に満ちたものであった。そこでシュリーマンは苦労の末にグラバー商会の仲介でアメリカ代理公使ポートマンの 招待状を手に入れて江戸を訪れることとなった。 1865(慶応1)年6月25日、強雨の中8:45分頃に5人の警備の武士を従えて横浜を馬で出発、茶屋で食事・休憩後、品川浦から御台場をながめつつ 14:00頃善福寺のアメリカ公使館に到着。雨で濡れた体を温めるため入浴した後、再び警護の武士を従えて愛宕山に登り周囲を展望した。 そして江戸城外周を1周して19時頃、アメリカ領事館に帰着した。 旅行記では善福寺の様子を、
〜午後2時頃アメリカ合衆国公使館へ着いた。善福寺という大きな寺でその名は永遠の浄福を意味する。花崗岩の巨大な山門をくぐると、 大きな石を埋め込んだ道が広大な前庭横切って大寺院まで続いている。〜
と紹介し、続けて公使館の様子を、
〜建物は二階建てで回廊がぐるりと巡らされている。外壁と内壁はすべて白い紙を貼った引戸障子である。〜
と書いている。さらにその建物は昼間200人、夜は300人以上の武装した役人により警備され、毎夜合言葉を 決めて敵味方を識別しているとの記述がある。ちなみに25日の合言葉は「誰→風」

 翌26日は晴天となり、早朝に他国公使館を訪問するため警護武士と共に出立した。済海寺(フランス公使館)※旅行記にはヒュースケン暗殺現場と誤記− 長応寺(オランダ公使館)−東善寺(イギリス公使館)と廻って、アメリカ領事館に戻り昼食。
午後からは浅草を訪れ、浅草寺を見た後に境内の見せ物を見物し、独楽の曲芸に驚嘆している。その後警護の猛反対を押し切って大きな芝居小屋 で芝居見物。日本語を理解しないシュリーマンにも芝居の筋は十分に理解できた模様。19:30アメリカ公使館に帰着。その晩の公使館警護武士の合言葉は、 「誰→大」と記している

    
麻布山善福寺
麻布山善福寺
6月27日 晴れ
早朝出立
団子坂で盆栽を見学−王子権現見学
有名な茶屋(王子扇屋?)で昼食
再び浅草見物
アメリカ領事館に帰着
領使館警護武士合言葉 「誰→娘」

6月28日? 29日?
4:30 鐘の音で目を覚まし、善福寺の朝の勤行を見学
7:30 6人の護衛武士を伴い、深川(富岡)八幡見物に出立
永代橋−深川八幡−須崎弁天−両国橋
アメリカ領事館に戻り昼食
午後、赤羽の寺(光林寺)を訪問しヒュースケン、伝吉墓に墓参

この日の光林寺訪問では、
〜  ヒュースケンは江戸に埋葬された、ただ一人のキリスト教徒であるばかりなく、日本語を正確に読み書きすることができるようになった唯一の外国人である そしてそれがその死の原因となった。彼があまりにも日本の生活になじんだので、自分たちの統治機構の秘密を洩らすのではないかと恐れたのである。 〜
などとあり、ヒュースケンの死因を追求している。そしてこれはただの憶測ではなく、江戸で訪問した各国公使館員たちの情報によるものと思われる。 26日に訪問したフランス公使館・済海寺では万延1(1860)年9月、イタリア人警備官が襲撃された事を聞いたであろうし、オランダ公使館・伊皿子長応寺は 数年前のシーボルト来日や写真家のベアトが江戸での常宿としていたことから時事情報が豊富であったと思われ、さらにイギリス公使館東善寺では通訳官「伝吉」 刺殺事件、2度にわたる公使館襲撃事件などをシュリーマンは聞き知っていたと考えるのが妥当かと思われる。

 旅行記に記された「江戸」の項は6/24〜6/29となっているが、前述したように江戸への到着は25日であることから29日には横浜に向けて旅立ち、 さらにサンフランシスコへと向かう船に乗ったようなので、実質4〜5日間の善福寺滞在ではなかったかと想像される。さらに5年後の1870年から シュリーマンはトロイアの発掘を開始し、数年後にはトロイの木馬の話で有名なトロイア遺跡を発見することとなる。






関連項目
・続・ヒュースケン事件
・シーボルトの見た麻布
・イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の一)
・麻布山善福寺
















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188.麻布近辺の源氏伝説(総集編)



これまで笄橋伝説、一本松・麻布氷川神社創建など源氏と麻布近辺のかかわりを伝えてきたが、今回はそのまとめをご紹介。

    
笄橋跡
笄橋跡
    
江戸名所図会−笄橋
江戸名所図会−笄橋
   
渋谷金王八幡神社に社宝
として伝わる源経基の「笄」
渋谷金王八幡神社に社宝として伝わる源経基の「笄」
   
一本松
一本松
    
一本松碑文
一本松碑文
   
三田八幡神社
三田八幡神社
    
綱坂
綱坂
    
綱の手引坂
綱の手引坂
   
渡邊之綱 産湯の井戸
渡邊之綱 産湯の井戸
 源氏と麻布のかかわりが初めて登場するのは、平将門の乱(承平天慶の乱)にちなんだ伝説である。 源経基を六孫・六孫王などと唱えることがあるが、これは清和天皇の第六皇子の子ども、つまり孫なので、六孫王と言う意味である。 天慶二(939)年2月、武蔵国へ新たに赴任した権守(国司クラスの地方行政長官)の興世王と介(副長官)の源経基が、前例のない赴任早々の税の 取り立てをめぐって以前からの足立郡の郡司(郡を治める地方官)武蔵武芝と紛争となった。 そこでこれまで親族闘争や近隣との紛争により関東地方に権力を持っていた平将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を和解させたが、 祝宴の際に武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲したと思い込み、驚いた経基 は京へ逃げ出してしまう。そして京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えた。これが平将門の乱(承平天慶の乱)の始まりである。 この京へ逃げ帰る道中で、経基は麻布の笄橋から一本松を通過する。

★笄橋伝説
 この頃の笄川(龍川)は水量も多く大きな流れだったので、この橋を通るしかなかったが、橋では前司広雄と言う将門一味の者が「竜が関」と言う関所を設けて 厳しく通行人の詮議をしていた。経基は一計を案じ、自分も将門の一味の者で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると偽った。すると関所の者に何か 証拠となるものを置いていけと言われ、刀にさしていた笄(こうがい)を与えて無事に通ることができた。これにより以後この橋を経基橋と呼んだ。そして 後に源頼義が先祖の名であるためにはばかり「笄橋」と改称させた。

そして橋を渡った経基は一本松にたどり着き、樹のそばの民家に宿を求め止宿した。翌朝この木に装束をかけ、麻の狩衣に着替えたと言われる。 その様子を江戸期の書籍「続江戸砂子」は、

★一本松伝説
天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。 その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。 今渋谷八幡東福寺の本号也
としている。しかし渋谷八幡(金王八幡神社)は寛治六(1092)年、渋谷山 東福寺は承安三(1173)年の創建と伝わっており年代が合わない。 (しかし東福寺には経基との因縁を示すものとして、経基が笄橋通過時に川の関守に与えた笄が残されているという。 )  また本村町薬園坂には江戸期まで七仏薬師を安置する東福寺薬師堂(正確には医王山薬師院東福寺)、またの名を源経基との縁から 六孫王寺とも呼ばれる寺があり、この七仏薬師は源経基の念持仏と伝わっていたので、あるいは渋谷云々は「続江戸砂子」の誤記であるのかもしれない。
この薬園坂の東福寺を「精舎」に当てはめるのが妥当かと思われるが、江戸名所図会、江戸砂子などによると、七仏薬師は鎌倉→川越→江戸平川 →神田→下谷と変遷して天和二(1682)年に麻布薬園に安置され、さらに貞享1(1684)年に東福寺に安置されたと伝わるので源経基の麻布通過時には存在して いなかった。よって、残念ながら無関係だと思われる。

 そして、あくまでも根拠のない全くの推測ではあるが、これを麻布氷川神社の創建と仮定すると、ほぼ年代的には無理がないように思える。 また一本松は氷川神社のご神木であったとの説もあるので、精舎→麻布氷川神社と考えても場所的にも時代的にもあまり無理がないように思える。

 鳥居坂〜暗闇坂〜現在の麻布氷川神社〜本村町薬園坂は古道(麻布区史には古奥州道とある)と言われているので経基はこの道を通過したものかとも思われるが、根拠はない。 また敵対した武蔵武芝については諸説あるが、現在も芝・聖坂の上にある済海寺は竹芝寺の跡といわれ、その当時は武蔵武芝の居館の一つであったとの 竹芝伝説もあるので、北関東に拠点を置く平将門の乱の当事者たちと麻布近辺の不思議な縁がしのばれる。
そして、武蔵武芝は氷川神社を祀る武蔵国造家を勤めたといわれており氷川神社との因縁も深い。

 芝・聖坂の下を麻布御殿の造営に伴う古川改修工事で現在の川筋が造られるまで、三の橋 から分岐した古川が流れ薩摩藩邸重箱堀となって最後に江戸湾に流れ出ていた。この川は改修工事が行われるまでは古川の本流だったとの 記述もあり、この川は「入間川(いりあいがわ)」と呼ばれていた。ご存じのように「入間川(いるまがわ)」と呼ばれる川が現在も北関東に流れており、 将門の乱の当事者たちの本拠地である鴻巣、浦和などのすぐ近辺であった。不思議な事だが、これは偶然の一致だろうか?また敵である武蔵武芝が 社務職を司った氷川神社を 何故経基は勧進したのであるろうか?また経基は将門追討軍の副将軍として関東に向かうが、将門が討たれ乱が終息したため途中から京へと引き返す。 さらにほぼ同時期に瀬戸内海で起こっていた藤原純友の乱にも副将軍に任命されて赴くが、これも終息により実戦には参加していない。しかし、これらの功績? により地方行政官から中央軍事貴族として大きく飛躍し、以降の清和源氏が発展する礎となった。

 この他にも、綱坂に名を残す渡辺綱は通称で、正式名称は源綱で清和天皇を祖とする。また後年渡摂津国渡辺庄に住んだことから 渡辺氏の祖ともいわれる。そして綱は、桓武天皇の皇子嵯峨天皇を祖とする嵯峨源氏の一族で、名前が代 々漢字一文字であるため一字源氏といわれている。この綱の先祖には源氏物語の光源氏の実在モデルといわれる 源 融(みなもと の とおる)がおり、おそらくそうとうな美男子であったと想像する。この綱が芝・綱町の由来となっており、 綱坂、産湯の井戸、綱の手引き坂などにも名を留めている。 江戸期の川柳には、
氏神は 八幡と 綱申し上げ
などとあるが、八幡とは三田八幡のことで、現在札の辻にある三田八幡の社地は当初、三田小山町であったことから詠まれた。 この渡辺綱の生まれを綱町近辺と確定する資料は無いようだが、もしあのあたりとすれば生まれが天暦七(953)年とされているので、 天慶二(939)年に起こった将門の乱の直後と考えられ、その事件を聞いて育ったのかもしれない。

 またさらに源経基の孫にあたる源頼信は、平将門の叔父良久の孫忠常が下総の国 で乱を起こしたおり(平 忠常の乱)、朝廷からの命令により「鬼丸の剣」でこれを討ちはたし、鎮守 府将軍となった。その時[長元1(1028)年]坂東の兵を集めたのが赤羽橋の土器坂 付近で勝手ヶ原とよばれた地域であったといわれる。 そして、金王八幡神社とのつながりのある金王丸(渋谷氏)と白金長者(柳下氏?)の娘の恋は 笄橋伝説の別説となっており、
★笄橋伝説の別説

 白金長者の息子銀王丸が目黒不動に参詣した時、不動の彫刻のある笄(髪をかきあげるための道具)を拾った。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い、 恋に落ちる。2人は度々逢瀬をかさねるようになり、ある日笄橋のたもとで逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が、 鬼となって現れ襲い掛かった。すると笄が抜け落ち不動となって鬼を追い払い、2人を救った。その後ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだ。 のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となった。
との伝説を残していて、こちらにも渋谷氏と源氏のつながりが垣間見える。さらに、時代が下って江戸初期には 渋谷氏創建とされる櫻田神社が元地の櫻田郷から赤坂を経て麻布へと移転し、麻布と源氏の因縁をさらに強めることとなる。




関連記事

・一本松
・氷川神社
・黄金、白金長者(笄橋伝説 その1)
・麻布と源氏(笄橋伝説 その 2)
竹芝伝説
・麻布七不思議
・麻布七不思議の定説探し
・二つの東福寺の謎






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189.赤穂浪士の麻布通過


     
    
泉岳寺義士祭2009年冬
泉岳寺義士祭2009年冬
    
将監橋
将監橋

 
三田八幡神社
三田八幡神社
 子供の頃、麻布の古老に「赤穂浪士は暗闇坂を通ったんだよ」と聞いたことからずっとそのように思い込んでいた。 しかし幾度か赤穂浪士関係の書籍を読むうちに疑問が湧いてきたので今回は赤穂浪士の「麻布通過」を調べてみた。

なぜそう思い込んでいたのかというと、もちろん討入り前に麻布を通過するはずはないのは承知していたが、 討入り後、
  1. 本所吉良邸から泉岳寺に向かう引き上げ道中として主道を避けるための迂回路として暗闇坂を通過
  2. 長府毛利藩に預けられた者が泉岳寺から長府藩邸に向かう過程で暗闇坂を通過
のいづれかであろうと想像していた。しかし、
  1. 討入り後の浪士一行はは芝大門あたりから東海道に出て、そのまま泉岳寺まで通行していることがわかり、 暗闇坂は通過していない。
  2. 討入り後、赤穂浪士の諸家預かりは泉岳寺では行われておらず、虎ノ門にある仙石伯耆守屋敷から日ヶ窪までの 行程となり、暗闇坂は通過できない。
と判明し、暗闇坂の通過は単なる風聞であったことが確認された。しかし、赤穂浪士は本当に麻布を通過していなかったのだろうか?.....

 元禄15(1702)年12月14日が討入りが決行されたとされているが、正確には12月15日午前4時頃から午前6時頃までの2時間あまりで 行われている。討入り後の浪士一行は本所吉良邸から泉岳寺に向かい、汐留あたりで本隊から別れた 吉田忠左衛門と富森助右衛門が、大石内蔵助の命により芝明船町(現在の虎ノ門病院付近)の仙石伯耆守邸へ「討入りの口上書」を提出るために むかう。さらに、本隊はそのまま芝大門手前から東海道に出て泉岳寺へと向かったが、金杉橋辺で磯貝十郎左衛門は将監橋の義兄の長屋に住む 重篤の母親を見舞うように大石内蔵助から勧められ「すでに別れは済ませた」として固辞したと伝わる。

 そのまま泉岳寺へとむかう一行が札の辻を過ぎて三田八幡にさしかかると、群衆の中から元赤穂藩士で「江戸急進派」と呼ばれ、討入り最強硬派 でありながら突然脱盟してしまった高田郡兵衛が浪士の前に現れる。しかし、浪士一行に冷たくあしらわれる。 郡兵衛はその後も、泉岳寺の浪士の元に祝い酒を持参するが、浪士からさんざんに罵倒され引き上げるという汚点を残した。 (高田郡兵衛は浪士が切腹した後に風聞をはばかった養子先から追い出され、自害したとも伝わる。)

 泉岳寺への到着は午前8時頃といわれ、大石内蔵助の命を受けた寺坂吉右衛門が一行から離脱したのも泉岳寺到着時とするものが多い。 その後の泉岳寺での浪士の様子は省略するが、吉良の首を浅野内匠頭墓前に供えて回向している頃、幕閣も仙石伯耆守の知らせを受けて大混乱 となっていた。そして閣議により、熊本藩細川家・水野家・長府藩毛利家・松平家・の四家への預け入れが決まり、各家に引き取りが申し渡された。 これにより預かりを命じられた各家では浪士引き取りの藩士を差し出したが、途中から引き渡しが泉岳寺から仙石伯耆守邸へと変更となった。その人数は総勢で1500人以上と驚くべきものがある。



赤穂浪士お預け四家
家 名藩 主領 地藩 邸現 在石 高護 送
藩 士
お 預
浪 士
主な浪士備 考
細 川越前守綱利肥後熊本高輪下屋敷高松中学54万石847人17名大石内蔵助最厚遇
水 野監物忠之三河岡崎芝中屋敷慶應仲通り5万石153人9名間重次郎光興細川家に続いて厚遇
毛 利甲斐守綱元長門長府日ヶ窪上屋敷六本木ヒルズ6万石200余人10名岡島八十右衛門冷遇後改善
松 平隠岐守定直伊予松山愛宕上屋敷慈恵医大15万石304人10名堀部安兵衛1泊のみ滞在
三田中屋敷イタリア大使館
やや冷遇



    
仙石伯耆守邸跡
仙石伯耆守邸跡
    
仙石伯耆守邸説明板
仙石伯耆守邸説明板



この大人数の警護の元での引き取りは、明らかに吉良上野介実子である藩主綱憲を擁する上杉家の仇討ちを警戒してのことであったと考えられるが、 実際に上杉家では、麻布屋敷と上屋敷で藩主の命により赤穂浪士討ち取りの準備をしていた。この上杉家の報復を映画やドラマでは家老千坂兵部に諫言され、 やむなく断念したことになっているが、実際には幕府の命を受けた縁戚の高家畠山義寧が押しとどめたと言われる。

 一方の泉岳寺では、途中から引き渡しが泉岳寺から仙石伯耆守邸へと変更となったことからすでに泉岳寺に参集してしまっている各家引き取り人でごったがえしていた。 そして夕方6時頃、浪士はようやく泉岳寺から仙石邸へとむかう。けが人を6挺の駕籠に乗せ、その周りを警護するように進んだ浪士一行だが、この時の道行きが、

泉岳寺東海道札の辻三田通り赤羽橋飯倉交差点→芝西久保→芝明船町(現在虎ノ門病院付近)の 仙石伯耆守邸

   
熊野横町
熊野横町




    
老舗 萬屋
老舗 萬屋
となっており、この道行きにおいては赤羽橋手前では、大石内蔵助が主君切腹後にはじめて江戸に登り、在府強硬派同士と会合に及んだ場所に 三田松本町(現・三田国際ビルの三田道りをはさんだ反対側あたり)の自宅を提供した元・浅野家出入りの日雇頭・前川忠大夫が 沿道から見ていたことは間違いないと想像される。 また飯倉熊野神社脇の「熊野横町」は堀部安兵衛が居住していたこともあり顔見知りが沿道で挨拶を交わしたと想像される。 そして飯倉交差点にあった老舗「萬屋」には堀部安兵衛直筆の討入り直前の書状が残されており、当主とは昵懇であったと 考えられるので、当然当主家人が沿道で見送ったと想像される。


この萬屋は麻布七不思議の一つに数えられる「我善坊の猫又」の当事者であり、書籍では、 島崎藤村が 「大東京繁昌記−飯倉付近」で、
〜この界隈には安政の大地震にすらびくともしなかったというような、江戸時代からの古い商家の建物もある。 紙屋兼葉茶屋としての万屋(深山)、同じ屋号の糸屋、畳表屋〜(P10〜11)
と記している。また文政江戸町方書上では万屋について、
延宝の頃より当町家持ちにて罷りあり、両替太物商い致し候ところ〜同人妻は伊兵衛の姉にこれあり、万屋一統と唱え、いづれも深山氏に御座候。
として深山一族を記している。さらに「麻布区史」では元禄期の萬屋当主・深山伊兵衛堀は部安兵衛と親交があり、討ち入り直前に安兵衛からの 手紙を受け取っていると記しており、その内容を掲載している。

亡主内匠頭志を達し継べきため

同氏弥兵衛我等この

たび亡命致し候、母・妻ならびに

文五郎儀、貴様相替らず

御懇意、別て頼み入り存じ候、

御内儀様・仁兵衛殿へも、

右の段、よくよく仰せ伝えられ

御心得下さるべく候、頼み存じ候 巳上


一二月十四日 堀部安兵衛

深山伊兵衛様





   
仙石邸移動図
仙石邸移動図
 護送にあたって幕府は御徒目付に沿道を監視させ、さらに沿道のすべての武家屋敷には高針提灯が掲げられ、 その門には門番が張り付いて上杉家の襲撃を監視したという。 そして飯倉片町で兵を供えていた上杉家の直近である飯倉交差点を通過する際には、討入り後最も危険な行程となり警護にも 非常な緊張感があったと想像される。しかし....実際には上杉家の襲撃は無かった。(出来なかった。)

このように浪士一行は赤羽橋〜飯倉と麻布最東部を通過しながら仙石邸へと向かっていたが、その人数は、 仙石邸に口上書を届けた吉田忠左衛門と富森助右衛門の2名と泉岳寺門前で大石内蔵助から暇を出された寺坂吉右衛門を 除く44名が同時に通過したものと思われる。そしてこの時の麻布通過に参加していない寺坂吉右衛門は、後に曹渓寺 のつとめを短期間果たした後に土佐藩支藩である土佐新田藩(麻布藩と呼ばれ、唯一の麻布を冠する藩名を持つ小藩で藩邸は曹渓寺 直前の麻布新堀町付近) に仕官して麻布とのかかわりを終生持つこととなる。

 2008年12/4付けの産経新聞によると、 大石内蔵助の一族の子孫が大石神社に寄贈した「弘前大石家文書」は、寛政2(1790)年、当時寺坂の子孫が仕えていた 高知新田藩の麻布山内家に、寺坂家の現況などを問い合わせたものといわれ、これに対して、山内家の家臣が答えた書状の中で 吉右衛門の三代子孫の吉右衛門 (吉右衛門の名は代々名乗られたと 思われる)は、養子のため血縁はないが主君の側頭を務めていることが書かれているという。 側頭とは主君の側近であるので 足軽から数代で側近にまで出世したことがわかり、寺坂家は麻布山内家に代々重用されていたとおもわれる。

しかし、赤穂市議会では 平成四年十二月の市議会本会議において”赤穂義士は四十六士か四十七士か”という質問があり論議を呼んだ。 これは 平成元(1989)年に赤穂市が別冊赤穂市史として「忠臣蔵」を公刊した祭に、寺坂吉右衛門を事前逃亡と判断したことにより 義士は四十六人であるとされてしまった。さらに、平成4(1992)年には赤穂市長が本会議において「義士は寺坂吉右衛門を含めた四十七士」 と発言したが市史の訂正は行われず、追記のみとされたことから現在もこの論争はくすぶり続けているという。

「節厳了貞信士」という名誉ある戒名と共に寺坂吉右衛門の本墓がある曹渓寺には麻布山内家歴代藩主の墓がある。そしてその山内家の墓の傍らに は寺坂吉右衛門の孫「信成」が建てた「寺坂信行逸事碑」が建立されている。 前述、曹渓寺・寺坂吉右衛門の戒名は「節厳了貞信士」とお伝えしたが、慶応4(1868)年に泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられた 際の戒名は、「遂道退身信士」と不名誉きわまりない戒名となっている。 しかしながら、寺坂家が仕官先から末代まで重用されることとなった事、大石内蔵助から託された職務を生涯をかけて全うした事、各地の赤穂義士 遺族を訪ねたことから全国7箇所に残された「寺坂吉右衛門の墓」があることなどからも、 寺坂吉右衛門には「遂道退身」の文字は似合わないと私は考える。



    
麻布氷川神社
麻布氷川神社
<付記>
 麻布と赤穂事件のかかわりはこの他にも吉良上野介麻布一本松に屋敷を持っており、本所松坂町屋敷の改築時には一般的に言われている上杉家高輪屋敷ではなく この一本松邸で過ごしたのでは?と「麻布区史」は疑問を投げかけている。

また、赤穂浪士討入りが成功した理由の一つに吉良上野介の本所松坂町屋敷における確実な在邸が確認された事が考えられるが、 12月14日に吉良邸で茶会があることを赤穂浪士に告げたのは京都から下向中であった荷田 春満かだの あずままろといわれる。そして 大高源吾が吉良家情報入手のため山田宗偏へ入門したのも荷田春満の紹介であるといわれており、荷田春満が討入り成功にはたした役割は 決して小さくない。この荷田春満は大石内蔵助の旧知の友人であったといわれており、麻布氷川神社社家の先祖とされている。 さらに麻布氷川神社の江戸期の別当寺で社の境内にあった「徳乗寺」が所属していた芝愛宕の「真言宗智山派 真福寺」は、大石内蔵助が主家再興を遠林寺住職祐海を通じ 真福寺第七世性偏をして幕府に働きかけていたといわれ、麻布氷川神社と忠臣蔵との因縁は浅くない。

その他、現在の有栖川公園は江戸期南部盛岡藩邸であったが、相対替え(等価交換)で屋敷が赤坂に移転するまでは主君浅野家の屋敷であったことも付記とする (詳細はむかしむかしでどうぞ)。

このように麻布と赤穂浪士は数々の因縁があることが判明したが、冒頭の「暗闇坂通過」を確認することは出来なかった。しかし、幕末期に 父に手を引かれ、暗闇坂から四之橋を抜けて(暗闇坂通過は筆者の私見だが、古川橋が無かった江戸期には日ヶ窪から泉岳寺に行くには四之橋を渡らなければ ならなかったと考えている)最低でも月に一度は泉岳寺に赤穂義士を参詣していた少年がいた。その子供の名前を......乃木希典という。




<元禄期庶民に詠まれた落首>

細川の 水の(水野)流れは清けれど 
ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる


置き(松平隠岐守)に甲斐(毛利甲斐守)ある大石を
細川水の(水野)堰き止めよかし












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乃木希典










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