むかし、むかし1




1.赤いくつ




 
   
十番パティオ きみちゃん像
十番パティオ きみちゃん像
   
十番パティオ きみちゃん像
十番パティオ きみちゃん像
      
きみちゃん像 説明板
きみちゃん像 説明板
 知らなかったと言うより、気がつかなかったのだろうが、夏の十番祭りの時”雪”がある広場(パティオ)に立っている銅像。 童謡”赤い靴”のモデル”きみちゃん”のものなのだそうだ。本名岩崎きみ、歌の中では異人さんに連れられて行ったことになっているが、実際は今の十番稲荷の辺にあった鳥居坂教会の孤児院で亡くなっていた。

 きみちゃんは、1902年(明治35年)7月15日静岡県清水市宮加三で生まれ、母のかよさんと共に開拓団として北海道に渡る。しかしかよさんに再婚話が持ち上がり、また当時の開拓地の想像を絶する厳しさ等からきみちゃんが3才の時に、アメリカ人宣教師チャ−ルス・ヒュエット夫妻の養女になった。しかしヒュエット夫妻が帰国する事になった時、結核を発病した彼女は、長い船旅ができずやむなく麻布の永坂教会孤児院に預けられ、明治44年9月15日の夜、9才で亡くなったそうだ。

  永坂孤女院は1894(明治27)年麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った 東洋英和女学校の生徒が有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。 その後、1904(明治37)年には麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。 そして、麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院はさらに麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。 そして大正12年まで現在の「十番稲荷神社」のある場所で不幸な子供たちを収容し続けた。歌は、入植に失敗し新しい夫、鈴木志郎とともに札幌に戻った後、夫が「北鳴新報」という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃勤めていた野口雨情と親交を持つようになった、かよさんが話のつれづれに「きみちゃん」の事を雨情に話し、そのイメ−ジをもとに雨情が1921年(大正10年)に詩を作り、翌11年に本居長世が曲をつけた。この曲を本居の幼い娘たちが遊びの中で口ずさんでいたものが、いつのまにか広がったと言われる。 歌の中ではきみちゃんは、横浜から船にのって行ったことになっているが、これはかよさんは亡くなるまで、きみちゃんが9才で亡くなった事を知らずアメリカで元気に暮らしていると思っていたためである。

 「赤い靴」の女の子のモデルが明らかになったのは、麻布十番商店街振興組合のパンフレットによると、「昭和48年11月の北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという婦人の投稿記事がきっかけでした。(野口雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会った事も無い私の姉です。)この記事を当時北海道テレビ記者だった菊池寛さんが執念にも似た熱意で追跡していったのです。菊池寛さんは5年余りの歳月をかけて赤い靴の女の子の実像を求め、女の子の義妹である、そのさんの母親の出身地、静岡県清水市をかわきりに、そのさんの父親の出身地青森県、野口雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京ついにはアメリカまで渡って幻の異人さん、宣教師を捜し赤い靴をはいていた女の子が実在していたことを、つきとめたのです。」とある。 銅像は、このような不幸を繰り返さないため、十番商店街の人たちによって1989年2月28日に作られたとの事。

<以下は読売新聞1998年7/14夕刊>

 銅像が建ったその日に、像のすぐ側で洋品店を経営する山本さん(56歳)が、像の足元の台座に18円が置いてあるのを見つけた。誰が置いたのかわからないが翌日、気になって見に行くとやはり小銭が置かれていた。その後も不思議な寄付は続き累計が58円になった時、山本さんが試しにガラスの器を置くと、今度はその中にお金が入った。小学生がポケットの小銭を入れたり、買い物帰りの女性がお釣りを置いたり寄金は絶える事無く、翌90年3月には30万円に達した。山本さんは「きみちゃんのように恵まれない子供たちのために使ってもらおう」と考え、全額をユニセフの寄付した。これを機に、鉄製の募金箱を置いて「きみちゃんチャリティ−」と名づけた。商店街も夏祭りの収益金を寄付するなどして毎年50万円前後が集まった。今年3月まで9年間の総額は515万円。うち70万円が阪神大震災の義援金に使われたほかは、すべてユニセフに送られた。山本さんが調べたところでは、かよさんは1948年(昭和23年)「きみちゃん、ごめんね」の言葉を残して64歳で亡くなった。大切な娘を手放した事を最後まで悔やんでいたと言う。「赤い靴」の像は、清水市、かよさんが入植した北海道留寿都(るすつ)村、きみちゃんが米国へ渡るはずだった港のある横浜市にそれぞれ作られている。








麻布十番未知案内−きみちゃんについての詳細な情報が掲載されているサイトです。



















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2.防空壕




 第2次世界大戦末期(昭和19年春ころ)、本土決戦を唱えた軍部は麻布の地形に目をつけ、海軍陸戦1個大隊(450名)を派遣した。 この大隊は、南山小学校を兵舎にして壕堀を始めた。

 「初期の計画は、賢崇寺の山を現篠崎製菓の裏の崖から掘り始め、一方、宮村山水舎の右方から掘り出し、中で二又にわかれ、善福寺の方へ抜いていく予定であったが、約6割ぐらいで、完成する前に終戦になってしまった。 壕のはば2米ぐらいで、両壁はコンクリ−トブロックで張り詰め、道路は下水の溝を作り、中央にトロッコのレ−ルが敷かれてあった。」と”十番わがふるさと”にあり、 防空壕と言うよりは、地下要塞のようなものにするつもりだったのだろうか。もう少し戦争が長引けば、この辺も激戦地になっていたのかもしれない。





<関連項目>
・続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )
・続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その3−明かされた壕掘削−
・続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その4−確定された宮村側入口−
・続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その5−建物疎開図の謎−
・続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その6−資料集−




















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3.くわがた




      
のこぎりクワガタの「ゲンジ」
のこぎりクワガタの「ゲンジ」
 小学生の頃、夏の楽しみは虫捕りだった。寺や屋敷が多く、昔から原生している木もわりと残っていたので、昆虫、特に甲虫が多かった。カミキリムシ、カナブン、玉虫、中でも”くわがた”を捕るのが一番面白かった。と言ってもそうどこにでもいたと言う訳じゃなく、まつたけのように、先輩から秘密に言い伝えられてきた”特定の木”にしかいなかった。 今でも覚えているのは、がま池の横、麻布山の墓地、有栖川公園、本光寺、麻布高校横、など。早朝に捕りに行く事が多かったが、不思議な事に秘密のはずの木 で先客に先を越される事も多く、次第にエスカレ−トして夜明け前に家を出たこともあった。
大体墓とか、池のほとりとか、昼間でも静かな所が多かったのでとても恐かったが、いっぱい捕れた時の事などを頭に描きながら歌など唄い、 怖さを振り払っていた。特にまだ夜も明けきらない早朝のがま池は怖く、し〜んと静まりかえった周囲の静寂が池の水面から何かが跳ねる音で破られると、カッパっ?大ガマっ?っとすぐにでも逃げ帰りたい衝動に駆られた。 そしてやっと木の側まで来ると、帰りがけの友達に会う。当時虫かごなどを持つのは野暮な素人と思っていっぱしの捕獲者を気取っていた私たちは、 クワガタを捕獲しても手に数匹を持ったままとか、ズボンのポケットに押し込んだりして帰った。 友人のその手には大きなクワガタが............またやられた。

 当時、近辺の子供たちはクワガタを特殊な呼び方で呼んでいた。オスのノコギリクワガタを「ゲンジ」、こくわがた、ひらたクワガタなどを「ヘイケ」と呼び、 メスはすべて「メンタ」であった。これは東北地方の方言に似ているので、その地方出身の親を持つ子供が言い始めたのかもしれない。しかしメンタとは呼ぶが、オンタとは言わなかった。 また大型のものは必ず「おばけ」の冠称をつけ「おばけゲンジ」などと呼び、そのグレードを友達と競った。
ある夏に「おばけメンタ」を捕獲した 私は得意になって友人に見せびらかしたが、だれもその「おばけメンタ」以上のメスを捕獲した者はいなかった。そしてずっと後年になって、あれはもしかしたらオオクワガタのメスだったのでは? と思ったが当時はオオクワガタの知識など誰も持ち合わせていなかった。
またある日、活発に活動する夜間を狙って近所の本光寺境内に行き、多くのカミキリ虫に混ざって少し大きめな黒い姿を見つけたので急いで捕まえた。すると感触が甲虫のものではなくフニャッとして柔らかい。 急いで手の中を確認すると、なんと大きなゴキブリであった。そして瞬時にギャ〜!っと悲鳴を上げて投げ捨てたが、その時の感触がこの歳になっても忘れられず、私は現在もゴキブリが大嫌いである。

 そんなクワガタ捕りも、真冬でも半ズボンで遊び回ったのをぱったりとやめ真夏に長ズボンをはくようになった中学生1年となると「もう、子供じゃないんだから」っと妙に冷めてしまい、それ以来 一度も行っていない。しかし10年ほど前の真夏、酔った勢いで当時の木を訪れた友人がいた。この話はブログコーナーに「本当にあった怖い話A 呼ばれた人」として掲載した「実話」である。

こんな事を書いていると、大変な年寄りだと思われるだろうが、これは昭和40年代半ばごろの話で、ちなみに私は、東京タワ−と同じ歳である。(やっぱり、おやじか(T_T))




(昭和期の麻布宮村町近辺クワガタ生息地図)










<関連項目>
わんわん原っぱ
がま池
麻布を騒がせた動物たち(其の壱・たぬき編)
麻布を騒がせた動物たち(其の弐・きつね・他 編)
麻布さる騒動−その1
麻布さる騒動−その2









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4.番外麻布七不思議




 元来七不思議などと言うものは、七つと決まったものではなく”沢山”と言う意味合いの物なのだろう。麻布七不思議もどれを七つに入れるかは、人によって異なるようだ。 以下は、七不思議の項以外の、いくつか。



○長坂の脚気石
 江戸の頃、永坂の坂上にあった後藤家門前に”脚気石(かっけいし)”と呼ばれる石があった。塩を供えて願いをすると、足の病に効能があり”かなめ石”とも呼ばれ評判を取った。道の真ん中にあり、通行の邪魔だと取り除こうとしたが、氷山の一角ではないが根が深く、びくともしなかった。 明治になり、露出した上部は取り除かれたが、果てしなく大きな”根”はいまだに土中にあると言う。
○広尾のおくりばやし
 良く晴れた秋の月夜、広尾ガ原あたりを歩いていると、どこからともなく”囃子”が聞こえてくるが、近くなったり、遠くなったりしてどこから聞こえるのか、わからなかったと言う。
○狐しるこ
 相模殿橋(四ノ橋)のそばで、尾張屋藤兵衛と言うものがしるこ屋を商っていた。そこに時々狐が化けて買いに来たので、評判となり大いに繁盛したという。尾張屋はそれを元手に京橋三十間堀に移転した。
○狸穴の狸そば
 狸穴下に「作兵衛蕎麦」という色の黒い純粋の生蕎麦がうまい蕎麦屋があった。時の食通にも好評だったが、いつのまにか廃業したという。名の起こりは、徳川の大奥を荒らしまわった狸穴の古狸が、内田正九郎という侍により討ち取られその霊を蕎麦屋の作兵衛が奉祀し たことから始まったという。狸を葬った狸塚は広尾にあったとも言われるが、狸橋の由来もこのことから起こったのかは、不明。



この他にも「続・麻布の名所今昔」によると、27もの不思議が...............。






関連記事

・麻布七不思議
・むかし,むかし
・麻布七不思議の定説探し
・麻布の異石















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5.一本松



 
   
麻布一本松
麻布一本松
   
麻布一本松
麻布一本松
      
江戸名所図会 麻布一本松
江戸名所図会 麻布一本松
      
上記「江戸名所図会」の元絵と思われる
安藤広重木版画「麻布一本松」
安藤広重木版画「麻布一本松」
 暗闇坂大黒坂狸坂を登り切った合流点にある松の木。この木のあたりから上のなだらかな坂を一本松坂という。
ここは、古い街道筋であったと思われ、松にいつわる伝説がいくつもある。有名なものでは、源経基がこのそばの民家に宿を求め 翌朝この木に装束をかけ、麻の狩衣に着替えたと言われる。 また、京から来られた”松の宮”という高貴な方が、ここで亡くなり衣冠と共に埋葬したことから”冠の松”と呼んだと言うもの。 その他にも小野篁が植えたとの説、氷川神社の御神木説、徳川家康が植えた、秋月邸の羽衣の松、など数々の話がある。
現在の松は、3回目の植えつぎで、残されたものであるとの事であるがそれ以上の植継ぎという説もある。

 小野篁説では、京都から松乃宮様という方が下ってきて、この松の下で亡くなり、介抱をした小野篁が衣冠と遺体を埋め、松の木を植えた。 木造の如意輪観音を安置した。小野某の死後この観音様は現在隣の長伝寺に移されたと伝えている。

★文政町方書上−麻布一本松町
 〜往古当所へ松の宮様と称し奉り候御方京都より御下向これあり、暫くお足を留められ候に終に薨御あそばされ候につき 、かねて御介抱され候小野姓の何某御衣冠とも当時の場所に葬り、お墓の印に植えられ候松ゆえ冠の松と唱え候由。 右傍に草堂を結び如意輪観音の木像を安置しお跡を弔い申され候ところ、終焉の後、年代知れず、観音は同所長伝寺へ移し、 跡へは松の守りに番人差し置き候由。観音は、およそ丈八寸位の座像にて、智証大師の作の由。松の儀は、古来一葉ゆえ一本松 と呼び替え候や、明和九辰年焼失致し植え継ぎ候えども、おいおい一葉に相成り申し候。今は氷川神木の由申し伝え高さ三丈六尺八寸、 枝東へ二丈、西へ二丈六尺、南へ一丈六尺八寸、北へ一丈六尺三寸、根廻りにて五尺八寸これあり、右へ長さ一丈、幅八尺四方の 駒寄せ致し置き、咳の病人平癒の願掛け致し、成就の上は竹の筒へ醴を入れ納め候由に御座候。〜
★東京名所図会−一松山長伝寺
 同寺に安置せる観音の木像あり。伝云ふ往昔一本松の枯死したるの際。其の樹皮朽蝕剥落して木心僅かに存せるもの七八寸。 其の状観音の立像に類せるより時人之を祀れるものなりと。其傍に一面の石碑あり。丈二尺五寸。幅一尺許り三梵字を刻せり弥陀。観音。 勢至の佛菩薩の名號なりとぞ。右方に延文3(1358)年戊戌三月吉日と刻せり。

とある。 また、狸坂と暗闇座かを挟んだ広大な土地が江戸初期の萬治二(1659)年、幕命によって芝増上寺の隠居地になるまで、このあたりは 麻布氷川神社の社領であったといわれる。これにより一本松は麻布氷川神社のご神木であったといわれる。また、源経基が 平の将門の乱により京に逃げ帰る過程として笄橋を渡って一本松にいたりそこで宿を求めたという説も残されており、笄橋伝説、 一本松伝説の発祥の元となっている。

続江戸砂子−一本松には、
 天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、 京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。
とあり、「渋谷八幡東福寺」と明記している。渋谷八幡は創建を寛治六(1092)年とし、同じ敷地にある別当寺の東福寺は承安三年(1173年)開創と伝わるので、これらが正しければ源経基が 止宿した天慶2(939)年頃とは年代が合わない。しかし東福寺には経基が竜川(笄川)を渡るときに関守に渡したという笄が残されているといわれ、また渋谷八幡の別名「金王丸」 は河崎重家(後の渋谷重家、渋谷家の祖)の子で、源頼朝により義経追討の命を受け戦死した金王丸常光(後の土佐坊昌俊)に因むといわれているので源氏との因縁は深い。そして江戸期には 一本松からも遠くない本村町薬園坂に源経基の持念仏といわれる七仏薬師が祭られた東福寺薬師堂(正確には医王山薬師院東福寺)が移転してくるのは、単なる同名寺の偶然であろうか? 謎は深まる。

また同書には続いて天正年間(1573〜1593年)の話として、
嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。
とあり、呪いの松とも呼ばれたという。

さらに、
★麻布区史
首塚−一本松増上寺隠居所の辺で、関ヶ原役に岐阜より到着せる多数の首級を埋めた處である。
★文政町方書上−麻布一本松町
〜前書一本松の儀、首塚とも申し伝え候えども、この儀は相分かり申さず候。〜
とあり、慶長5(1600)年8月に関ヶ原の戦の前哨戦として行われた岐阜城攻めの首を、江戸城の徳川家康が検分後、このあたりに 埋めたという説から家康手植え・首塚説なども伝わるが、これには異説もありもう少し南側の西町近辺とする説もある。

また、六本木の地名発祥の一説には、
 平安末期、源氏に追われた平家の落ち武者が6人落ちのびてきた。六本木あたりまで来るともはや力が尽きてしまったので、 榎の幼木を墓標がわりに植えて切腹し相果てた。しかしその中の一人は、希望を棄てずさらに刀を杖に一本松までさまよったが、 ついに力尽きてあとを追った。あたりの村人はこの武者を憐れみ、5本の榎に一本の松をいれて六本木として弔った。 そしてこのあたりを六本木と言うようになったという。
ともある。

 元禄15(1702)年の赤穂事件で討ち取られた吉良上野介は、浅野内匠頭切腹後に鍛冶橋から 本所へと幕命により転居されることとなる。その本所屋敷改装中の仮寓先を定説では上杉家高輪屋敷としているが、 麻布区史は、吉良家一本松邸では?という疑問を投げかけており、その一本松吉良邸の合った場所を「府内往還沿革図書」を出典として 善福寺北方、本善時・徳正寺・大法寺に 取り囲まれた場所としている。またほぼ同時期の元禄16(1703)年に一本松では南部家などとも縁の深い幕府表絵師 「麻布一本松狩野家」が「花下遊楽図」(国宝)の筆者、狩野長信の三男・休円清信を祖として誕生する。

また江戸期の書籍「諸家随筆集」では、当年(寛政10年(1798年))東武七奇の一つとして、
麻布一本松水茶や婆々九十二歳にて、名はかめ、6月朔日、男子を産、其子生れ落てより物言。
とあり得ない話を記しているが、一本松横にあった茶店「ふじ岡」のことであろうか。

そして樹とは直接関係はないが、太平洋戦争末期の昭和20年には本土決戦が叫ばれ、麻布山も巨大な地下壕が建設されていた。 この地下壕の宮村町−麻布山善福寺を結ぶトンネルがこの松の下あたりを通っていたことが地元の目撃情報などにより明らかとなっている。 詳細はこちらをどうぞ

またさらに麻布区史では、このあたりが古墳であったのでは?と述べているが区史が執筆された昭和初期にはその痕跡をとどめないとも書かれている。 しかし、この近辺では未完成の石器などが出土しており近辺の石器の製作所跡との説もある。

   
麻布一本松
麻布一本松
これらから、
・源経基止宿説
・麻布氷川神社ご神木説
・呪いの松説
・松の宮埋葬説
・小野篁植樹説
・徳川家康植樹説
・首塚説
・秋月の羽衣の松説
・甘酒快癒伝説
・塚の印説
・古墳説
など諸説が現在も伝わっていて、古来より大切にされてきたことが伺える。


松樹の根元の碑(昭和38年一本松・西町町会建立)によると、
江戸砂子によれば
天慶2年西紀939年ごろ
六孫源経基平将門を征服し
ての帰途此所に来り民家に
宿す 宿の主粟餃を柏の葉
に盛りさゝぐ 翌日出立の時
に京家の冠装束を松の木に
かけて行ったので冠の松と
云い又一本松とも云う
とある。また、碑の最後には、
注 古樹は明治9辰年焼失に付き植継
昭和20年四月又焼失に付き植継
   
昭和38年建立
一本松・西町町会が建立した碑
一本松・西町町会が建立した碑
とこの樹が焼失により2回植継がれていることが書かれている。しかし、十番未知案内サイトの解説によると明治9辰年 は誤り(明治9年は辰ではなく子)で明和9辰年の誤記ではと指摘している。調べてみると確かに明和九(1772)年2月29日 には行人坂大火があり麻布も広範囲に罹災しているのでこちらの説の方が説得力があると思われる。
追記:文政町方書上を 再読してみると「明和九辰年焼失」とはっきり書かれていました。文政町方書上は町年寄り・名主が幕府に差し出した正式な記録で信憑性が高い と思われるので、十番未知案内サイトの説は、正しかったことが確認されました。
また、この他にも麻布区史によると、文化年間(1804〜1817年)に表された「飛鳥川」には、 「麻布一本松も先年焼失して、今の松に植えかへ、昔の松の影もなし」と記されているというが、これは1806年文化三(1806)年におこった文化の大火(別名芝車町大火)との関連を想像させるものであり、 事実ならば、一本松は江戸の三大大火といわれる「明和の大火」、「文化の大火」で焼失していたことがわかる。

松樹の土台石垣には安政二(1855)年「若者」の文字を彫り込んだ石が埋め込まれ、樹の横には道標として使用されたと思われる古い標石、「家持中」「世話人 若持中」「文化四丁卯年(1807年)」と書かれた石灯籠、 そして何か曰わくがありそうな古そうな石などがある。この古そうな石のうちの一つをよく見ると墓石であり、
寛文六?年(元文六年は辛酉だが一文字しか入っていないような...)
為其月妙林信女
六月三日
と表面に彫られている。松樹との因果は不明だが寛文6(1666)年とのことで、江戸初期のものであることは間違いない。

さらに麻布区史では秋月の羽衣松について、
今の一本松を云った。江戸繪図を見ると、秋月候の邸地とは大分離れてゐるから、或は別に邸内に一本松があつたのかとも思はれる。 その由因は今詳らかにしない。
   
江戸の華名勝會-三番組、
麻布一本松
江戸の華名勝會-三番組、麻布一本松、六孫王経基・嵐雛助(歌川豊国)/元治元(1864)年二月出版
とありこの一本松との関連を、それとなく否定している。しかしこれらを含めて、
・秋月の羽衣松→高鍋藩麻布一本松邸
・一本松狩野→麻布一本松狩野家
・南部盛岡藩邸→江戸麻布一本松御下屋
・三井家→一本松町家(連家)
などと、一本松を冠した呼称・家名が使用された。 昭和期に一本松町家の跡地は空地として近隣少年の格好の遊び場で、三井さんの原っぱ、わんわん原っぱなどと呼ばれていた。 これは「薩摩っ原」、「有馬っ原」などと同義の呼称だと思われる。また、この一本松町家屋敷と一本松狩野家以外は実際の一本松とは かなり離れており、江戸期の「一本松」は、広範囲で使われた呼称であると考えられる。

余談だが三井家はこの一本松町家の他にも麻布近辺には、伊皿子家(本家)・本村町家(連家)・永坂町家(連家)などの連枝があり、さらに 総領家である北家三井八郎衛門高公邸は笄町にあったものが江戸東京たてもの園に移築され一般公開されているという。(詳細はウィキペディアでどうぞ 。)


★江戸鹿子−壱本松
あさぶに有。そのかみ天正のころをひ、嫉妬ふかき女房此松を植て人を呪詛しけるとなり。又説には此木、塚の印の木なりと云。伝未た明ならす。
★続江戸砂子−一本松
一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。又天正のころ嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。又小野篁のうへられし松と云説も有。一本松に経基王の来歴、わかりかねたる文段也。説も亦とりかたし。病をいのるとて、竹筒に酒を入れてかくるといふ。此松、近年火災にかゝりて焼けぬ。今は古木のしるしのみありて、若木を植そへたり。


<関連記事>

・麻布氷川神社
・黄金、白金長者(笄橋伝説 その1)
・麻布と源氏(笄橋伝説 その 2)
・麻布七不思議
・麻布七不思議の定説探し
・浅布原の首塚
・続、麻布原の首塚
・続、続麻布原の首塚
・麻布近辺の源氏伝説(総集編)
・圓朝のくたびれない黄金餅
・麻布近辺の古代遺跡
・鬼平犯科帳の麻布近辺
・呪いの狂歌
・宮村町の宗英屋敷
・続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )


<関連書籍>

・鬼平犯科帳−・麻布暗闇坂(迷路)、麻布一本松(二十一)
・なんとなくクリスタル
・暗闇坂むささび変化 −はっぴいえんど「風街ろまん」収録曲
・耳袋秘帖 麻布暗闇坂殺人事件
・麻布の少年
















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6.柳の井戸



      
麻布山善福寺 柳の井戸
麻布山善福寺 柳の井戸
善福寺惣門を入って参道右手にある井戸。境内の「逆さいちょう」と共に麻布七不思議の一つにも数えられている。
柳の井戸は正式には「楊柳水」といい、井戸の脇には「楊柳水銘」と書かれた石碑がある。この石碑は 明和二(1765)年に建てられたようで、江戸名所図会によると弘法大師が常陸の鹿島明神に願って得た阿伽井(あかい) であるということで「鹿島清水」ともいわれる。碑文の最後には「葛辰書」とあるのでおそらく 東町生まれで服部南郭に学んだ、あの松下君岳(烏石)の揮毫と思われる。

楊柳水銘
彼石泉
盈科而流
空海所呪
其霊永留
阿那楊柳
水中影浮
飲者治疾
徳潤千秋
明和二年乙酉歳中秋前一日
藤公縄義篆
藤定vチ
葛辰書
      
麻布山善福寺 柳の井
また”柳”とは、井戸の横に「うなり柳」 とも呼ばれる柳の木があるため。 「続江戸砂子」は、「うなり柳」について、
麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。うなり柳。古木はかれて若木也と云。清水のかたはらの柳といへり。来歴しれす。
としていて、江戸名所図会では、
鹿島の清水。総門と中門との間いあり。往古弘法大師常陸国鹿島明神に乞得給いひし阿伽井なりと。又土人云く。鹿島の地に 七井と称する霊泉あれども其一つは空水といへり。昔は其側に柳樹ありしかば。一名を楊柳水とも唱へ侍ると云々。此柳をうなりやなぎという由。 来歴詳ならず。
とある。

弘法大師が、鹿島大明神に祈願して手に持った杖を突き立てたところ、たちまち湧き出したと言われる井戸で 常陸の鹿島神社にある七つの井戸は、一つをここによこしたため、空井戸になっていると言われる。 関東大震災や昭和20年4月、5月の空襲時には この井戸が多くの人に水を与えた。





      
柳の井戸 説明板
★説明板
柳の井戸

自然に地下から湧き出る清水である。
東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、
古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手
に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち
噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて堀った
ものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。
とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大
震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質
な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、
保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われ
る。

昭和四十九年1月

東京都港区教育委員会
楊柳水 湧水
楊柳水 湧水



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7.狸橋の狸そば



 
      
狸橋と由来碑
狸橋と由来
   
碑文
碑文
   
名所江戸百景広尾ふる川
名所江戸百景 広尾ふる川
 
創業者が狐鰻で修行した
東麻布「野田岩」
創業者が狐鰻で修行した<br>東麻布「野田岩」
天現寺橋と五の橋の間に小さな橋を見つけた。狸橋と言う名の由来は昔、橋の南西に蕎麦屋があった。子供を背負い手拭いをかぶったおかみさんに蕎麦を売り、そのお金を翌朝確かめると”木の葉”になっていたからとも、江戸城中で討たれた狸の 塚があったからとも言われる。ちなみにこの日の昼食は五の橋の長寿庵でたぬきそば。食べ終わり勘定を済ませ、しばらく歩いて「お釣り」を確かめてみると、手の中には石ころが二つ...........。

狸穴の狸そば」の伝説によると、

狸穴下に「作兵衛蕎麦」という色の黒い純粋の生蕎麦がうまい蕎麦屋があった。時の食通にも好評だったが、いつのまにか廃業したという。名の起こりは、 徳川の大奥を荒らしまわった狸穴の古狸が、内田正九郎という侍により討ち取られその霊を蕎麦屋の作兵衛が奉祀し たことから始まったという。狸を葬った狸塚は広尾にあったとも言われる。
この狸橋を渡ったあたりを江戸期には「狸蕎麦」という地名で呼んでいたので、資料はないものの狸穴の古狸はこのあたりに葬られたものかと推測する。

現在の狸橋は昼間でも人通りが少なく、おそらく地元住民しか通らない橋となっているが、江戸期の天現寺橋は 古川ではなく笄川(竜川)にかかる橋であったため、目黒・白金方面に抜ける橋は四の橋(相模殿橋)の上流には狸橋しかなかった。 おそらくに日中は目黒不動参詣などにより、狸橋にかなりの通行があったものと思われるが、夜は極めて寂しい場所であったことが推測される。
また、この橋の下流にある四の橋(相模殿橋)近辺には狐にちなむ伝説「狐しるこ」が残されいる。またさらに現在の白金商店街入り口 付近には江戸期から 鰻の名店「狐鰻」(江戸〜明治期の鰻の名店で名士、著名人が多く利用したとされる。また安藤広重の「名所江戸百景広尾ふる川」にも描かれている) 現在も東麻布にある鰻の名店「野田岩」もこの狐鰻で修行したため店の看板に「狐鰻」の文字が書き込まれている。 (現在の店主は初代・岩次郎が四之橋狐鰻で修行した事と、鰻の種類が狐鰻と呼ばれる顔のとがった上質の鰻を取り扱っているための二つの意味から 看板に狐鰻の文字を掲載したと述べている。)

また木戸孝允日記には、

1875年(明治8年)2月26日
其より井上(馨)伊藤(博文)に狐鰻店にて会し
との記述が見える。 いづれにせよ、このあたりから広尾辺は江戸郊外としての静寂を保っており、他にも七不思議の一つ「広尾の送り囃子」や近隣の自然教育園が明治期には 「狸山」と呼ばれていた(近代沿革図集)こと などから狐狸との因縁の深い場所であったものと思われる。



○狸橋 由来碑−碑文

狸橋の由来

むかし橋の西南にそば屋があって
子供を背負い手拭をかぶったおかみさ
んにそばを売ると、そのお金が、翌朝
木の葉になったといいます。
 麻布七不思議の一つで、狸そばと呼ん
だのが、地名から橋の名になりました。
ほかに、江戸城中で討たれた狸の塚が
あったからともいっています。

昭和53年 港区



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・堀田屋敷の狐狸退治
・我善坊の猫又


















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8.氷川神社(麻布氷川神社)



 
      
麻布氷川神社
麻布氷川神社
      
麻布氷川神社 本殿
麻布氷川神社 本殿
      
江戸名所図会 七仏薬師 氷川明神
江戸名所図会 七仏薬師 氷川明神
通称:麻布氷川神社

御祭神:素盞鳴尊・日本武尊

末社:應恭稲荷神社・高尾稲荷神社

麻布稲荷七福神(戦前)・港七福神(現在): 毘沙門天

例祭:9月17日に近い土・日曜日

昔の遊び:こどもの日前後

チャリティ餅つき:12月初旬

初詣:12/31深夜〜

所在地:港区元麻布4-4-23



麻布の総鎮守として、また明治期からは行政権も有するといわれる社格「郷社」として人々の信仰を集めた麻布氷川神社は、 天慶五年(942)年創建源経基とも、文明年間(1469-1485)太田道灌創建とも伝わる古いお社である。

江戸初期までは、暗闇坂と狸坂をはさんだ2,000坪以上の広大な社域を持ち、社の二の鳥居が鳥居坂上に(このため鳥居坂となったと言う説もある)、 三の鳥居が永坂にあったとも言われ江戸氷川七社の一つとしての面目を保っていた。そしてこの場所に現在も残されている
一本松は 麻布氷川神社のご神木であったといわれる。しかし、それまでの社地が萬治二(1659)年に増上寺隠居所がとなることが幕命により 申し渡され、これをもって現在の地に遷座した。この時に付近にあった民家も広尾の祥雲寺門前に移されたため、のちに祥雲寺門前 は宮村町代地と呼ばれ、その住民は現在も麻布氷川神社の氏子であるという。

増上寺隠居所は将軍家の来訪もあり、特に桂昌院(綱吉生母)と将軍綱吉は隠居していた祐天上人を度々訪問している。また、この隠居所周辺の景観は、 三緑山志の著者・竹尾善筑は文政二(1819)年四月一四日この場所を訪れた際に辺りの景色を「八境十景」として、
閑扉朦月・窓前虫声・斜径散歩・垂絲綻花・山井清澄・氷川鎮祠

秋園芳草・祖塔蒼苔・長伝幽鐘・麻廛炊煙・總山晩雲・赤橋行客

杜間流蛍・芝峰層塔・海路遠帆・孤松膏雨・枯林宿鴉・春天紅霞
  
と詠んでいる。この中で「氷川鎮祠」と書かれた麻布氷川神社については、本誉上人により開基したときからの隠居所の鎮祠とされ、 桂昌院と綱吉の隠居所訪問時には供物を供えて麻布氷川神社を参拝したとある。

 この麻布氷川神社の元地を基準として膝元の村を「宮村町」と呼び、他にも「宮下町」も神社との相対的な位置から 町(村)名が名付けられた。そしてこれと二分するように麻布山善福寺を基準とした町(村)名、西町、東町、山元町などが善福寺の門前町 として名付けられた(江戸期の正式な町名は「善福寺門前東町」などとされていた)。

文政町方書上では町の起立について、

★宮村町
町名起立の儀、〜略〜当初は往古より麻布総鎮守氷川の宮これあり候につき、小名を宮村と唱え申し候。近辺に宮下鳥井坂の唱えも当所に 社地これあり候ゆえ相唱え候由、しかるところ、右鎮守社辺り寛文二寅年御用地に召し上げられ、増上寺隠居屋敷に相渡り候につき、社は 本村の内へ相移り候えども、町名の儀は同様相唱え来たり候。
★宮下町
麻布総鎮守氷川明神宮の下ゆえ町名に相唱え〜


などとしておりこの他にも「鳥居坂」町の坂名の由来を麻布氷川神社の二ノ鳥居があったことに由来するという説もある。 また、江戸期には神社は必ず寺の管理下に置かれ、社を管理する寺を「別当」と呼んだ。麻布氷川神社の別当寺は、麻布区史によると、
★徳乗寺(徳乗院)
真言宗 (古義真言宗 冥松山 徳乗院  芝愛宕 真福寺末寺)
元文5(1740)年開基寂 氷川及び朝日稲荷別当 享保20(1735)年北日ヶ窪より本村に移り維新後廃絶
とあり愛宕一丁目に現存する真福寺の末寺で、日ヶ窪の朝日神社と共に管理されていたことがわかる。 この徳乗寺を調べたが当初は所在地も確定できなかったので、徳乗寺を末寺としていたとされる愛宕・棲仙山真福寺に問い合わせた。 そして数日後調査の結果をお聞きした。それによると真福寺は確かに江戸期の徳乗寺が末寺であったことがわかったが、それ以上の資料は 真福寺にも残されていなかった。 改めて地図などから所在地を確認したが、

★「徳乗円院」または「徳乗寺」は、
・文政十二(1829)年の『御府内備考・続編(御府内寺社備考)』 敷地図には見あたらない。
・1861(文久1)年東都麻布之絵図、1862(文久2)年の麻布地図には見あたらない。
という不思議な結果となった。
しかし、東都麻布之絵図と同じ1861(文久1)年に作成された麻布絵図には麻布氷川神社の境内に徳乗寺と書かれており、寺は神社の境内に あったことが判明した。

神社境内に祀られている「高尾稲荷」は戦前まで竹谷町にあり戦後移転された稲荷だが、社が稲荷とも深い因縁を持つ家系のため から祭祀されたのかは不明。また ウィキペディアには、関連項目として赤穂浪士の討ち入りの際に吉良邸で茶会が行われる事を浪士に知らせた 荷田春満(かだの あずままろ)へのリンクが貼られており麻布氷川神社との因縁を示している。また前述した麻布氷川神社の境内にあったと思われる 別当の徳乗寺が所属していた芝愛宕の棲仙山真福寺は、大石内蔵助が主家再興を遠林寺住職祐海を通じ真福寺第七世性偏をして幕府に働きかけていた こともあり忠臣蔵との因縁は浅くないと思われる。

社によると神社の正式名称は「氷川神社」で「麻布」を冠していない。 そして江戸期の資料を見ると赤坂氷川社と混同しているものが多く見られる。これは赤坂氷川神社の所在地を「麻布今井」としているものも 多くあるので麻布には氷川神社が二つあったこととなってしまう。このためか、江戸七氷川筆頭を自称する赤坂氷川神社は自社を「本氷川」 と呼んで区別したとも考えられる。この傾向は各地の氷川神社にも見られ白金、品川なども正式には地名を冠していない。 また江戸期中期以前の麻布は「麻布七ヶ村」とも「麻布十六ヶ村」ともいわれており、現在考えられている麻布の範疇を大きく上回っていた。 これにより広い意味では後に掲載する麻布近辺の氷川神社のいくつかも麻布を冠していても不思議ではない。 しかし、創建年代が明らかとなっている近隣氷川社のうち、現在の麻布氷川神社が最も古いと伝わるので、この説を元としたい。 麻布氷川神社の創建は、天慶五年(942)年源経基によるものとも、文明年間(1469-1485)太田道灌によるものとも言われるが、 もし源経基創建説が正しければ、笄橋伝説・一本松伝説の延長線上にありその由緒は源氏と氷川神社の結びつきが強いと考えられる。

江戸期の逸話として「賤のをた巻」という書では、
〜略〜 翁は次男にて稽古歩行廻る頃養兄と連立ち所々に行く。兄もと烏石が弟子にて麻布一本松の氷川の麻布総鎮守と云額は 烏石が書たると語りられし故、彼辺往来する頃心を付て見れば、いかにも烏石が筆と見えて見事なりしが 〜略〜
として松下(烏石)君岳揮毫の額が社にあったことをほのめかしている。

麻布氷川神社が「江戸氷川七社」の一つであるとの伝承があるが、赤坂氷川神社サイトによると江戸期の書籍「望海毎談」を出典として 江戸氷川七社とは、
@赤坂氷川神社
A麻布氷川神社
B渋谷氷川神社
C簸川神社(文京区)
D盛徳寺(麻布今井)
E羽根田村(新堀近き所の社)−不明
F萬年寺山−不明
の七社と定義し二社が不明ながらもその根拠を示している。その他、サイトによると氷川神社は全国で261社、都内でも68社あるといわれるが、
麻布の周囲だけでも、
・麻布氷川神社
・赤坂氷川神社
・渋谷氷川神社
・白金氷川神社
・品川氷川神社
と麻布近辺は氷川神社の都内でも有数の密集地帯となっていることがわかる。

麻布近辺の氷川神社
社 名所在地創 建勧 進備 考
白金氷川神社港区白金2丁目不明日本武尊創建7世紀頃?白金村総鎮守
麻布氷川神社港区元麻布1丁目天慶五年(942)年源 経基別説に創建文明年間(1469-1485)
勧進は太田道灌説もあり
赤坂氷川神社港区赤坂6丁目天暦五(951)年蓮林僧正江戸七氷川筆頭
品川氷川神社品川区西五反田5丁目不明不明桐ヶ谷村鎮守
渋谷氷川神社渋谷区東2丁目不明日本武尊7世紀頃?



○美少女戦士セーラームーン
その他、麻布氷川神社は1990年代の人気アニメ「美少女戦士セーラームーン」で、火川神社の名で登場し、且つ同作品の主要人物の一人であるセーラーマーズ ・火野レイが巫女をしているという設定のため、放送当時ファンが押しかけたことで有名である。これは同アニメ作者が執筆当時に麻布十番商店街 に居住しており、周囲の情景や歴史をモデルとして使用されたためと推測できる。

 
      
天保三年 麻布氷川大明神
御祭禮番付
天保三年 麻布氷川大明神御祭禮番付
   
千貫御輿
千貫御輿
      
本村町会所蔵の獅子頭と山車人
本村町会所蔵の獅子頭と山車人
○山口瞳の結婚
また、昭和24(1949)年5月28日、作家の山口瞳は鎌倉アカデミアで同級生だった古谷治子との結婚式をこの麻布氷川神社であげている。

○例大祭
麻布氷川神社の例大祭は毎年9月中旬に行われている。本村町、宮村町、宮下町、竹谷町、新堀町、三軒屋町などの所属町会が町神輿・子供神輿、山車を 繰り出し町内を巡行したのちに、麻布氷川神社でお祓いを受ける。毎年例大祭は二日間行われ、初日は夕刻本村町・竹谷町・新堀町 の三町会で行われる連合渡御と、能舞台で行われる奉納舞いなど、二日目の日曜日は町内を巡行した宮村町・宮下町などの大人神輿が十番商店街で行われる 神輿パレードに十番稲荷神社氏子町会神輿と共に参加する。また本村町・竹谷町・新堀町の三町会で行われる連合渡御も三の橋周辺で行われ、祭礼のメインイベントになっている。

一方、西麻布の上笄町会も麻布氷川神社の氏子町会であるが、場所的にやや離れた位置にあるため氷川神社への渡御が難しいため、例年長谷寺の境内において盆踊り、露店などのイベントを開催している。 昭和期の麻布氷川神社例大祭では、境内に露店が数多く出店されており賑わいを見せていたが、現在は行われていない。しかし昨年(2010年)は境内で大道芸などが行われ、2009年には麻布氷川神社の氏子町会神酒所を巡る「神酒所スタンプラリー」も行われた。

また、江戸期の祭礼には各町内が競って人形が乗った山車を繰り出し巡行した。その様子が文政13(1830)年と天保3(1832)年の祭礼番付けに残されている。しかし、この 天保3年の巡行を最後に、人形山車巡行を伴う大がかりな祭礼は行われなくなったといわれている。そしてその30年後の文久2(1862)年、獅子頭(本村町会に現存)が作成されるがその理由はわかっていない。
○宮神輿 千貫御輿
九月の例大祭にはは御輿倉が開かれて、麻布氷川神社の宮神輿である通称「千貫御輿」が公開されされる。 この千貫神輿は1935(昭和10)に作成されたおりに牛車に乗せての巡行以来、一度も行われていない。 この時の巡行の様子は本村町資料に写真として残されているほか、渡御の様子を絵図とした「宮神輿渡御絵図」が本村町会に残されている。

「東京、わが町 宮神輿名鑑」(原義郎 著)によるとこの宮神輿は、
神田・宮惣 昭和初期制作 四尺(122センチ)
桟唐戸の細工をはじめ彫刻や彫金も見事な延軒屋根、平家造りの錺神輿
渡御が待望されて久しい神輿の一基でもある。
と記されている。 また同書巻末の「江戸東京祭礼神輿年表」には、その出典は不明ながらも麻布氷川神社の祭礼について、
  • 享保20(1735)年八月十七日 麻布氷川毎年例祭
  • 寛政3(1791)年八月十七日 麻布氷川明神祭礼、出し練物等出る。其の後休
  • 文政5(1822)年八月十七日 麻布一本松氷川明神祭礼再興。産子町々出し練物を出す。其後中絶す。
  • ※文政13(1830)年 祭礼番付
  • 天保3(1832)年八月十七日 麻布一本松氷川明神祭礼。四十年目にて産子の町々よりねり物等出る。
    (文政5年に記載あり。十年ぶりの誤りか)
    ※祭礼番付・武内宿弥山車人形作成?
  • 天保9(1838)年八月十七日 麻布一本松氷川明神祭礼。十五日神輿宮下町の仮屋へ御旅立出あり。今日産子町々廻りて帰輿あり。
  • 文久2(1862)年 ※本村町獅子頭制作
  • 明治31(1898)年8月17日 麻布一本松氷川神社祭礼
  • 昭和10(1935)年 宮神輿完成
との記述がある。(赤字部分はDEEP AZABU追記)


現在の千貫神輿は道路事情や電線事情、また神輿自体の老朽化により例大祭時の神輿倉内での公開にとどまっているが、一刻も早い神輿の修復が各所で望まれている。


本村町会が所蔵する山車人形と獅子頭
麻布氷川神社の膝元、本村町会には江戸期作成とされる大きな獅子頭と山車人形が伝わる。
(これらの情報は十番未知案内サイトに詳しいので興味のある方は参照して下さい) 特に獅子頭を御輿に仕立てて町内を巡行するという風習は、同町内に残され麻布七不思議のひとつでとして数えられることもある「釜なし横町」の伝説との因果も想像される。 この山車人形の保存に関して昨年NPO法人「麻布氷川江戸型山車保存会」が発足し、保存・修復に向けて動き出す予定といわれている。






○几号水準点
明治初期には「几号水準点」が社の石華表(鳥居)に刻印されていたようであるが、現存していない。


 
      
港区内三氷川直列
港区内三氷川直列
      
三氷川直列@
三氷川直列@
      
三氷川直列A
三氷川直列A
○港区内三氷川神社の直列
赤坂−麻布−白金の各氷川神社は古道といわれる道(麻布区史では古奥州道としている)沿いの南北にいわくありげに、ほぼ一直線に鎮座している。
【赤坂氷川(創建地:赤坂四丁目一ツ木台地)〜麻布氷川(創建地:暗闇坂と狸坂に挟まれた斜面)〜白金氷川神社(創建地:現在地)として設定】
大宮氷川神社も中氷川神社・氷川女体神社の三社を結んで一体の氷川神社を形成していたとの伝承、また奥多摩市の奥氷川神社・所沢市の中氷川神社 ・大宮氷川神社もそれぞれ奥社・中社・本社として配置されたとも言われ、当地麻布周辺においても同様の考え方があっあとしても 不思議ではないと思われる。そして創建年代についても白金氷川神社は不明ながら赤坂氷川神社は天暦五(951)年、麻布氷川神社が天慶五年(942)年と 9年ほどの差しかないことから、想像ながら両社に何某かの関連性があったとしても不思議ではない。 港区内氷川神社の配置からすると麻布氷川神社は「中社」の位置づけとなるのであろうか。


○各地の三社直列
ウィキペディアによると、
大国魂神社(六所宮)の祭神や南北朝時代の『神道集』の記述では、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社 (旧称小河大明神)を二宮、氷川神社を三宮としており、〜略〜

〜略〜霊峰富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点にあり、 大宮の氷川神社、三室の氷川女体神社、中川の中氷川神社(現・中山神社)が、浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶ。 この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある〜略〜
との記述があり、三社を直線に並ばせて配置する他所の実例を示している。

また奥多摩町の「奥氷川神社」〜所沢市の「中氷川神社」〜大宮市の「大宮氷川神社」の三社は「武蔵三氷川」とされていて、 それぞれが奥社−中社−本社の関係にあるといわれる。



○御祭神にまつわる謎
麻布氷川神社の主祭神は素盞嗚尊、 配神が日本武尊 とされるが、 大宮氷川神社の御祭神は須佐之男命奇稲田姫命大己貴命である。この3人の神の関係は 「須佐之男命」の妻が「奇稲田姫命」でその娘「須世理姫」 を正妻としたのが「大己貴命(別名:オオクニヌシノミコトで神仏習合により大黒天も同義)」であり三者は義理含めた同族(※大己貴命が須佐之男命の息子であるなど諸説あるが)である。 これにより氷川神社は家族和合の神を祀る神社ともいわれている。

御府内備考続編−(麻布)氷川神社の項には祭神が日本武尊のみが記載されている事から、少なくても江戸中期頃の麻布氷川神社の御祭神は 日本武尊のみとしていたことがわかる。日本武尊が東征のおりに自らが崇敬する素盞嗚命を祭った氷川神社で祈願をしたという逸話が 各所に残されており (白金氷川神社・渋谷氷川神社・中氷川神社など)その関連が想像される。
※白金氷川神社の創建年代は不明だが東京都神社庁サイトには、
日本武尊御遠征の時、素盞嗚尊を勧請した武蔵の国一の宮氷川神社の遙拝所として当所に御鎮座された。
と記されており、日本武尊との関係を明記している。しかし祭神として日本武尊を祭っている氷川神社は 現在私が調べたかぎりでは、この麻布氷川神社と白金氷川神社の二社のみしか確認できていない。 しかし、江戸天保期の大宮氷川社の書籍「氷川大宮縁起」には素盞嗚命・奇稲田姫命・大己貴命の三神の他に日本武尊を 合祀したとある(日本の神々 神社と聖地U関東)ので、麻布氷川や白金氷川の祭神が日本武尊であることは際立って珍しいということにはならないようだ。 ちなみに江戸元禄期の大宮氷川神社においても主祭神を特定する争いが男体社・女体社・簸王子社の社家間で起こり決着がつかないので幕府に公訴となり、 元禄12(1699)年寺社奉行より三社同格の下知があったとされる。 しかし一般的には主祭神は男体社の素盞嗚命、その后である奇稲田姫命を女体社、子供である大己貴命を簸王子社とすることが定説となったようである。



区内三氷川神社の御祭神
社 名御祭神御神紋
大宮氷川神社素盞嗚命・奇稲田姫命・大己貴命八雲紋
赤坂氷川神社素盞嗚命・奇稲田姫命・大己貴命左三つ巴: 左三つ巴
麻布氷川神社日本武尊・(素盞嗚尊)巴紋
白金氷川神社素盞嗚尊・日本武尊・櫛稲田姫尊 柏紋





○創建と社家にまつわる謎
そして最大の謎は、 各地の氷川神社の総本社といわれる大宮氷川神社の社務家を勤めたのが武蔵竹芝といわれるが、麻布氷川神社は平将門の乱に おいて、平将門・武蔵竹芝連合軍の対抗勢力となる源経基の創建伝説を持つのはどのような理由からであろうか?そして、その武蔵竹芝 居館は三田聖坂上の済海寺にあったとされる説(竹芝伝説)もあるので、 北関東に勢力の中心を持っていたと思われる武蔵竹芝、源経基 の両雄の麻布近辺においての活動に、麻布氷川神社の創建にまつわる謎はさらに深まる。 そして、「日本の神々 神社と聖地U関東」という書籍の中では、 武蔵の古社(菱沼勇著)という書籍の文章をを取り上げ、麻布氷川神社・赤坂氷川神社などについて、
「これらの神社の社伝は、もとよりそのまま信じがたいであろうが、その勧進の古いことは事実であることと思われる。 そしてこれらの古い氷川神社は、大宮の氷川神社を氏神とする集団が、すでに上代において、武蔵国の各地に分散し、 定住して、武蔵国の開発にあずかって力のあったことを物語るものであろう」
と記述している。






○そもそも氷川神社とは
大宮氷川神社の正式名称は「氷川神社」で大宮とは「大きいお宮」の意味であり、この氷川社があったためについた地名だといわれる。 この大宮氷川神社を元社として関東地方を中心としてその擁護勢力の拡大や氏子の移転などから全国に広まったと考えられている。 大宮氷川神社の社伝では紀元前473年(孝昭天皇3年)創建とされているようだが他に、
  • 景行天皇(71年〜130年)の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したさいに創建された。

  • 成務天皇(131年〜190年)の年代に出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、氷川社を崇敬した。 この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の 「簸川」(現在の斐伊川)に由来する。
などという説がある。 ちなみにこの「簸川」を社名にした神社が一社だけ存在する。東京都文京区千石の簸川神社である。 現在この「簸川神社」も含めて氷川神社は全国に261社(諸説あり)とされ、そのほとんどが埼玉県と東京都(旧武蔵の国)に集中している。


全国の氷川神社
県名社数分布
比率
埼玉県162社62.1%
東京都68社26.1%
福井県12社4.6%
福島県5社1.9%
神奈川県2社0.8%
山梨県2社0.8%
茨城県2社0.8%
栃木県2社0.8%
島根県2社0.8%
千葉県1社0.4%
長崎県1社0.4%
鹿児島県1社0.4%
北海道1社0.4%
13都道府県261社100%






氷川神社
全国分布図
氷川神社
埼玉県・東京都分布図
氷川神社
「東京都心部」分布図


















○境内社「高尾稲荷」

麻布氷川神社
境内の高尾稲荷
境内社の高尾稲荷は竹谷町(現南麻布1丁目)「猿助の塚」付近にあったものを戦後麻布氷川神社境内に遷座したものであるが、そのいきさつについて地元の話では、 ・進駐軍による移転命令説
・元祭主の代替わりによる
・道路拡張による移転
などが言われているが、その実態は不明である。またある古老の話しによると高尾とは伝説で仙台藩主伊達綱宗により惨殺された 二代目高尾太夫(万治高尾)を祀った稲荷社とも 伝わり、この稲荷の元地(現在の竹谷町)は江戸期仙台藩下屋敷であったことから、邸内社として祭られていたとも想像される。この高尾太夫と仙台藩の関連を示すものとして、 仙台藩品川下屋敷敷地内(現在の京急鮫洲駅西側付近)にも高尾太夫 の器を埋めたとされる場所に枝垂れ梅があったとされる。




○麻布氷川神社祭礼時神酒所設置
・本村町会
・三軒家町会
・上笄町会
・富士見町会
・西麻布東町会
・一本松西町会
・麻布十番睦会
・麻布宮村町会
・山元会
・竹谷町会
・東町町会
・新堀町会






<関連記事>

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・一本松
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・麻布と源氏(笄橋伝説 その 2)
・麻布近辺の源氏伝説(総集編)
・竹芝伝説
・釜なし横町
・麻布七不思議
・麻布七不思議の定説探し
・高尾稲荷





















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9.しみず ”ボタン”屋



      
MAX
MAX
暗闇坂の登り口、宮村町へ入る道のかどにあるおもちゃ屋。この辺に住む子供でしみずを知らなければ”もぐり”と言われた。
昔は、駄菓子とプラモデルが主力商品だった。そして片隅に洋服のボタンが売られていた。 プラモデルが割と揃っていたのは、ここと六本木の”ふじかわ”位なものだった。遠足のお菓子に、ここの”あんず”を箱買 したやつがいたっけ。銭湯帰りにここで腰に手をあててラムネを飲むのが、ストレスの解消法だった。 今は、ゲ−ムソフトとプラモデルが主力のようだが、駄菓子も置いてほしんですけど.......



 追記2009年

上記記載から10年が流れ、しみずは大井町に支店を出店し、店名も「MAX」となったようだ。最近子供と話をしたらMAXではなく 友達も皆「シミズ」と呼ぶという。












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10.はらきんの釣り堀



 
      
原商店看板
原商店看板
      
六本木ヒルズ建設前の原金付近発掘調査
六本木ヒルズ建設前の原金付近発掘調査
      
1883(明治16)年 参謀本部
陸軍部測量局測量原図
1883(明治16)年 参謀本部陸軍部測量局測量原図
玄碩(げんせき)坂を下った左手に、釣り堀があった。日曜日などは、糸を垂らす隙間もないほど混んでいた。 半日かけて金魚が2匹などと言う事もあった。釣りはあまりうまくなかった。はらきんが掘った池だと思っていたが 江戸の初期にはあったようだ。
この池のほとりにあまり高級じゃない岡場所があり、遊女ではなく夜鷹が、かなりのボッタクリをしていた。 ある夜、久留米藩の侍が遊びにきたがあまりのひどさに腹を立て、藩の侍100人あまりを呼んで、 徹底的に打ち壊してしまった。それ以降2度と店は出来なかったそうだ。 (この岡場所は
末広池と推定されますので訂正させて頂きます。)

この金魚卸売り商店は芸術家岡本太郎の母親である岡本かの子の小説「金魚撩乱」に描かれている。また明治期の池は池群と呼べるほどの 数があり、未確認ではあるが、明治15年から17年までの短期間稼動していた麻布水道宮村町浄水貯池である可能性もその数の多さから否定できない。

3枚目の写真にある発掘調査は六本木ヒルズ建設直前で、まだ玄碩坂が通行できた折に偶然見かけたものであるが、調査は港区の教育委員会であったと記憶している。 そして発掘者に声をかけて何を調査しているのかを尋ねると、「以前あったお寺の調査です」とのお返事。おそらくこの池のすこし坂上に明治期まであった 円福寺かと思われる。この寺は同じ宮村町にあった広尾神社の別当寺である千蔵寺と共に宝泉寺(渋谷区東に現存)が明治期に住職を兼務しており、1891(明治24)年には宝泉寺と合併され渋谷に移転した。

1883(明治16)年10月に作成された「参謀本部陸軍部測量局 五千分一東京図測量原図」東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍には 原金池とその他の池群が描かれており、その形状から天然の池を加工して恣意的に造られたと池と想像できる。 これは私見だが、明治期にあった麻布水道宮村貯水池ではと想像してしまう。 中央の赤い建物は日ヶ窪の栴檀林(現在の駒澤大学)、上の大きな池はニッカ池(現在の六本木ヒルズ毛利池)














<関連項目>
・六本木hills
・さよなら薮下
・麻布な湧き水
・麻布の水道(江戸時代)
・麻布の水道(明治の麻布水道)
・ニッカ池 (赤穂浪士その一)
・ニッカ池 (赤穂浪士その二)
・がま池
・「麻布新堀竹谷町」のがま池
・「麻布本村町」のがま池


















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11.麻布山善福寺(其の一)



 
      
麻布山 善福寺
麻布山 善福寺
      
善福寺中門−勅使門(復元)
善福寺中門−勅使門(復元)
      
境内手水鉢「亀子山」
境内手水鉢「亀子山」
      
善福寺本堂−東本願寺八尾別院本堂を移築
善福寺本堂−東本願寺八尾別院本堂を移築
      
麻布郷の鎮守と伝わる「善福寺開山堂」
麻布郷の鎮守と伝わる「善福寺開山堂」
 麻布山善福寺の起源はひじょうに古く、東京では浅草寺(628年)に次ぐ842年とされている。
弘法大師により開かれ、鎌倉時代、了海上人の親鸞上人との出会いにより、真言宗から浄土真宗に改宗されている。 その経緯は、5年間常陸に師(法然上人)と共に流され、放免で京に戻る途中の親鸞上人は、おなじ藤原一門(紀氏ともいわれる)の出身である 青年僧で後に関東六老僧の一人となり麻布山善福寺中興の祖と呼ばれることとなる、
了海上人のいる善福寺に立ち寄った。この時 了海上人は、親鸞を試そうと煮え湯の中に自分の手を入れて、「師もこのような 事ができますか」と言い熱湯の入った手桶を、親鸞の前に差し出した。すると親鸞は静かに立って庭の水瓶から水を汲み 手桶にさしぬるま湯とした。そして「宗教とは、修行した者のみが、独占するべきではない。だれもが、親しみやすいもの であるべきだ。」と言い諭した。この言葉に悟りを開いた了海上人は、ただちに浄土真宗へと改宗した。
そして親鸞が善福寺を去る時、持っていたイチョウの杖を地に突き立てたのが大きく育ち、麻布七不思議 の一つとして数えられ、現存する「逆さいちょう」の起源となった言われる。

さらに本堂裏山には楊枝杉と呼ばれた杉の木があり、 江戸期の書「続江戸砂子」には、
是は弘法大師廻国の時、やうしをさし給ふに、此杉七株わかれて大木となる。その梢に白き麻布の旗のことくなるもの一流ふりくたる。よって当所を麻布といふと也。そのゝち木奇端多くあるにより、天台の霊場とす。此杉はかれたるよし、一株もなし。▲此麻布の説、甚誤也。麻生の地名は、よく麻の生る地にて、布の事にはあらす。又麻茅生(あさじふ)といひて、草の浅々と生る地をいふとも云。これは浅生(あさふ)也。古来の御図帳には麻生と書しよし、古老申侍也。
とあり、「あざぶ」の語源となったと思われる「麻降る山」の伝説を残している。しかし、この杉の木は残念ながら現存していない。
そして、もう一つの現存する麻布七不思議として柳の井戸も同寺内参道に残されている。

その後、寺は鎌倉後期の蒙古来襲時(文永の役−文永11(1274)年)に亀山天皇の勅使寺となり、それ以来善福寺の中門は「 勅使門」と呼ばれた。(昭和20年焼失1980(昭和55)年再建) 時代が下ると織田信長の本願寺攻めの際には本願寺に援軍を送り、 豊臣政権が誕生すると豊臣秀吉から所領を安堵されている。

そして江戸期には将軍家の庇護を受けたといわれ、初代将軍の徳川家康は、麻布山善福寺に天正19(1591)年11月付けで朱印を授け、 寺領の保護を誓約した。 そして、この時の住職第14世堯海は家康と近しくしており、ある時家康が急に善福寺に立ち寄り銭十貫を求めたので直ちにこれに応じたので、 将軍となった後も善福寺は毎年正月6日に十貫を納め、将軍家からそれに時服を添えて返礼されるのが慣わしとなった。
その後二代秀忠、三代家光も善福寺をたびたび訪問したが、とりわけ家光と麻布の繋がりは深く、甲良豊後守に命じて本堂の建立を行わせている。 また、一時的にではあるが家光は善福寺の山号をこの寺のある麻布山の山形が亀に似ていることから 「亀子山」に改めさせている。この山号は家光の死後再び「麻布山」に戻されたが、この時の山号変更の痕跡が境内の手水鉢と会館正面の額に残されている。 そして、家康・秀忠・家光が鷹狩りのさいの休憩・昼食などに使用したといわれる境内の将軍家専用の茶屋は「栖仙亭」と名付けられ服部南郭撰文の「栖仙亭記」 にその名を残している。 善福寺本堂は昭和20年の空襲により消失しているが、再建された本堂は徳川家康が慶長12(1607)年に東本願寺八尾別院本堂として建立したもので、 東本願寺の御影堂としても使用されていたものを1960(昭和35)年に大阪から移築した。

また麻布山善福寺オフィシャルサイトによると江戸期には麻布の他に善福寺池(杉並区)を奥の院、さらに江戸城虎ノ門を元は麻布山善福寺の山門としている。 また大田区西蒲田(荏原郡六郷領女塚村)近辺を寺領としていたとあり、当時の権勢が伺える。

麻布氷川神社の元地(暗闇坂西面)から見た相対的な場所を町名として宮村、宮下、坂下などの各町が起立したのに対して、 東町、西町、山元、の各町は麻布山善福寺の門前町であり、やはり相対的な場所を町名として起立した。

また、麻布区史によると逆さいちょうの下一帯と寺の背景斜面に貝殻と縄文土器、磨製石斧の出土を記しており、古来から人が住んでいた形跡を残している。

著名人の墓所も多く麻布区史によると、
・車屋善八−宇喜多秀家の子孫で非人頭
・櫻井宗辿−江戸の儒者
・赤松沙鴎−松山候儒臣
・赤松太痩−沙鴎の子、儒者
・山田慥斎−儒者
・安見元道−幕府儒官
・勝川春英−浮世絵師
・勝川春好−浮世絵師遁世して善福寺に遇する
・松波筑後守−14代江戸南町奉行。弁天小僧を裁断。
・木下道圓−儒者
・木下杏林−道圓の子。儒者

などがあり、また幕末に善福寺に頻繁に出入りしていた福沢諭吉の墓がある。 福沢諭吉は1901(明治34)年2月3日臨終を迎え、葬儀を8日に福沢家の菩提寺である善福寺で行ったのちに、諭吉が 生前自ら買い求めていた品川区大崎の本願寺(現在は常光寺)に埋葬された。 その時の様子を「考証 福澤諭吉 下」では、
二月八日は、前日の末明から降り続き地上に真白に積もった雪も、朝あけとともに一天からりと 晴れ渡り、定刻までにほぼ乾いて、塵埃もおこらず却って好都合であった。

  午後零時四十分、普通部生徒七百余名を先頭とし、幼稚舎生徒二百余名がこれに続き、葬送曲 を吹奏するラッパに歩調を整え、次は商業学校生徒三百余名、大学部学生三百五十名、いずれも 四列縦隊を組、これにつづいて大学部学生九名が交代で竹筒に挿んだ尺余の樒三対を持ち、導師 麻布超海以下僧侶五名いずれも黒染の法衣に徒歩で加わり、続いて香炉を捧持した 石川幹明、位牌を捧げた日原昌造、故福澤諭吉之柩と大書した銘旗を大学部学生がこれを捧持 し、次は諭吉の遺骸を納めた檜白木造、長さ七尺三寸・幅三尺一寸の簾輿、その蓮台の長さは四 間一尺、白丁五十人でこれを担ぎ、輿の周囲には小幡篤次郎、荘田平五郎以下塾員の長老がつきそい、 喪主福澤一太郎・捨次郎以下親戚の人々いずれもフロックコートを着用し、行列中一基の生花も造花も なく、また高声で談話する者も喫煙する者もなかったのは、沿道の人々を感動せしめたという。
〜中略〜
麻布山善福寺に到着したのは午後二時ごろで、葬儀焼香の終わったのは午後三時ごろ。
それか霊柩は埋葬地なる大崎村本願寺の墓地に向かった。幼稚舎生徒は善福寺かぎりで引き取る ことにしたが、その生徒たちは白金台町に達するや道の両側に整列し、哀悼のラッパとともに挙手 注目、脱帽または捧銃の敬礼をする中を、霊柩は粛々と通過し、本願寺の墓地に 埋葬の儀を完了したのは午後五時ごろであった。
と細かく伝えているが、棺が自邸を出たのが午後12時40分で善福寺の到着が午後2時としているので 三田から麻布まで1時間20分をかけての、かなりゆっくりと進む葬列であったことがわかる。

時は下って1977(昭和52)年、諭吉の墓が常光寺より善福寺墓地に移設された際に は、土葬であった事と偶然に水温の低い地下水に浸っていたため遺骸は埋葬時のままのほぼ完全な形で発掘された。諭吉の遺骸を学術解剖や遺体保存の声もあったが、 遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。現在常光寺には慶応義塾により建立された「福沢諭吉永眠の碑」が残る。

諭吉の命日の2月3日は雪池忌と呼ばれ、現在も塾長以下学生、OBなど多くの慶應義塾関係者が墓参する。
また、同じ墓所入り口付近には越路吹雪のモニュメントもあるが、これは墓ではなく歌碑であり越路吹雪の墓は川崎市宮前区の本遠寺とのこと。

墓地内にある「開山堂」は真言宗の蔵王権現として中興の祖「了海上人」が蔵王権現の申し子とされていたために開かれたという。そして、 麻布の地名の由来は諸説あるが、「麻に布」で「あざぶ」と読むのはそれまで代官支配地で江戸郊外あった麻布各村が 町奉行支配となり「町」となって江戸に編入された江戸中期以降と思われる。これは善福寺の山号が その昔麻布山に麻が降ったことがあり、麻布留山(あさふるやま)と言ったのを後に略して麻布山と唱えたのが広まったことや 寺の住職が代々麻布姓を名乗っていることから来ているともいわれるが、その根拠は明らかとなっていない。

善福寺には太平洋戦争当時の東部軍管区兵站部海軍燃料廠の感謝状が残されており、また宿坊も近衛四連隊・東部八部隊・六部隊の宿舎として徴発さ れたという。さらに寺横の斜面(昭和期に篠崎製菓があった裏手の斜面)から各方面に向けて本土決戦用の巨大な地下壕 が掘削された。



このように時代の支配者達からも認められた善福寺には、以下の文化財が保管されているという。(十番わがふるさとより)
1.鎌倉初期、了海上人の木像
2.北条氏直の文
3.豊臣秀吉の文
4.長尾景虎(上杉謙信)の文
5.弘法大師の名号
6.親鸞上人の名号
7.見真大師、真筆の軸
8.石山本願寺の旗
9.石器時代の斧

その他にも善福寺は手塚治虫の「日だまりの樹」などにも登場し、幕末にアメリカ合衆国公使館となるが、ハリスの公使館については 別項で。




<関連項目>
・逆さいちょう
・柳の井戸
・ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の弐)
・ヒュ−スケン事件
・続・ヒュースケン事件
・ハリスと唐人お吉
・ヒュ−スケンとお鶴、お里
・徳川将軍家の麻布
・善福寺池
・シーボルトの見た麻布
・シュリーマンの善福寺滞在
・続、防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )






















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12.わんわん原っぱ



大黒坂と暗闇坂の合流点に昔、空き地があった。大黒天の横から坂の頂上までの、かなり大きな空き地だった。秋には、”おんぶバッタ”がたくさんいて、 みんなで良く捕った。ここの他にも、狸坂の横、宮村公園の上、今の麻布税務署の第一パンあとの空き地と、がま池の横。今と違って駐車場などにせず、”原っぱ” ばかりだった。そこは、子供だけの世界。虫取り、2B、爆竹。大人の雑誌が落ちていると、表紙だけで鼻血をだしていた。
先日の同窓会終了後、十番の”山忠”での2次会の話題の中に、わんわん原っぱが出てきた。なぜ”わんわん”なのか私も知らなかっが、 ある奴いわく「おおかみ」が棲んでいた。と....(ばっかやろう ! 野良犬だろうが。)
おんぶバッタの他に、よく捕れたものがもう一つ「平凡パンチ」......















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13.ベアトの麻布



おもしろい本を発見した。「写真で見る江戸東京」(新潮社)と言うタイトルで、幕末から明治初期までの江戸の様子が写された写真が載っている。 その中の多くの写真を撮ったのがベアト{フェリックス(フェリ−チェ)・ベアト、1825年ベネチア生まれ。報道写真家。 クリミア戦争の写真展の成功でイギリス国籍を取得。従軍写真家としてパレスチナ、インド、第二次アヘン戦争に参加後、友人ワ−グマンの招きで来日。
横浜に会社を設立その後20年あまりを日本で過ごし、銀相場の失敗で離日。その後ス−ダン戦争に従軍後、ロンドンに帰り、晩年はビルマで暮らした。}で、 麻布の写真も多く残されている。
一つは、赤羽橋から中の橋方面の古川と、久留米藩有馬家上屋敷が写されている。もう一つは、三の橋近辺の写真で清らかな古川と、うっそうとした森が写っている。 これならば、たぬきも棲んでいただろうと思われる風景で、あらためて麻布の緑の深さに納得した。
麻布とはかけ離れるが、すごい写真がある。焼き討ち直前の薩摩藩邸(現品川パシフィックホテル)を写した写真 門番が恐い顔でこちらをにらみ、二人の武士が刀に手をかけている。ベアト達は、撮影の許可を仰いだが屋敷の主人は却下した。主人の名は、事実上の藩主久光。
生麦事件の当事者であり、薩英戦争の敵であるベアトがここを撮ろうとしたのは、なぜだろう。
(※のちにこの写真は石榴坂ではなく綱坂であることが判明しました)。
じっとにらみつける藩士の隙をついて撮られた一枚の写真。そして薩摩藩邸最初で最後の写真。 この直後、藩邸は焼き討ちされた。
生麦事件、鎌倉事件など異国人殺害事件が多発していた危険な江戸を、ベアトは撮り歩いた。中には、江戸城を正確に写し取った写真なども含まれた。
これらの写真から受ける印象は、趣味や娯楽ではなく、報道写真家として、又大英帝国への忠誠心として写されたものだろう。
ベアトのポ−トレ−トは掲載されていないが、ロバ−ト・キャパのような人だったのだろうか。(実は太って、愛敬のある人だったようである。ガッカリ!)




<追記 2010.05>
上記文章を書いてから10年以上が経過した現在、いくつかの変更点が出てきたので訂正と追記。

まず、フェリックス・ベアト(Felix Beato) の出生地はベネチアとしたが最近の資料ではギリシャの西方、イオニア海に浮かぶイギリス領コルフ島となっている。これによりイタリア人で クリミア戦争後に英国籍を取得とするのは間違いで、生まれながら英国籍を所持していたこととなる。名前も英国籍取得時にフェリックスと改めたという説も、フェリックス(Felix)は 通称で、正式には「フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)」が正しいとされる。 また生年も1825年ではなく1834(天保5)年と訂正され、来日は1863(文久3)年3月とされているので29才前後と思われる。当時の日本は攘夷運動の真っ最中であった。


ベアト来日と攘夷・外国人関連の事件
場 所事 象・事 件
安政六(1859)年7月横 浜横浜でロシア士官・水夫刺殺
10月三田済海寺フランス領事館ボーイが切られる
安政七(1860)年1月高輪東禅寺イギリス公使館通弁「伝吉」刺殺
万延元(1860)年12月麻布中之橋アメリカ公使館通訳官ヒュースケン暗殺
文久元(1861)年5月高輪東禅寺第一次東禅寺事件
文久二(1862)年5月高輪東禅寺第二次東禅寺事件
8月神奈川 生麦事件
11月横 浜外国公館焼討未遂
12月品 川御殿山英国公使館番人殺害
12月品 川御殿山英国公使館焼き討ち
文久三(1863)年3月横 浜F.ベアト来日。横浜居留地で開業
麻布一之橋清河八郎暗殺される
麻布善福寺アメリカ公使館が襲撃され焼失、公使館は一時横浜に移転
土 佐山内容堂が土佐勤王党の粛清に乗り出す
京 都幕府が朝廷に対して攘夷期限5月10日を約束
5月下 関長州藩、下関で外国商船を砲撃
7月江 戸F.ベアトがスイス使節団の臨時随行員として江戸市中を撮影
薩 摩薩英戦争
9月井土ヶ谷井土ヶ谷でフランス人士官暗殺
元治元(1864)年4月エジプトA.ベアト「スフィンクスの前に立つ遣欧使節」を撮影
10月鎌 倉鶴岡八幡宮でイギリス軍人ボールドウィン少佐・バード中尉が暗殺される
8月F.ベアト4カ国艦隊の下関砲撃に従軍
11月F.ベアト鎌倉江ノ島を撮影旅行
慶応三(1867)年7月長 崎長崎でイギリス人水夫二名暗殺
8月富士山F.ベアト、オランダ総領事と富士登山撮影
慶応四(1868)年1月神 戸神戸事件で外国兵負傷
2月堺事件でフランス兵殺傷
明治四(1871)年6月韓 国F.ベアトアメリカの朝鮮遠征隊に従軍
明治一七(1884)年11月横浜F.ベアト日本を離れる



 
   
F.ベアト肖像
F.ベアト肖像
      
スフィンクスの前に立つ遣欧使節
(A.ベアト)
スフィンクスの前に立つ遣欧使節(A.ベアト)
来日直後の1863(文久三)年7月、ベアトはスイス外交団団長 で友人のエメェ・アンベール(Aime Humbert)の助力により外交団の臨時随行員となり、 当時は外交使節しか許可されない江戸の町に入っている。スイス外交団は同年5月28日オランダ軍艦「メデューサ」で江戸に上陸し伊皿子長応寺に入った。 しかし将軍不在の江戸では攘夷の嵐が吹き荒れ、オランダ公使館も襲撃対象となっている事を外国奉行村垣範正から 告げられ江戸退去を勧められた。しかしアンベールは公文書による通達以外は応じられないとして勧告を拒否した。 すると幕府側から6/2、6/4の2度にわたり公式の通告文書が発行されたので6/8やむを得ず外交団は幕府軍艦エンペラー(蟠竜丸) で横浜に戻る。この時には生麦事件が未解決であったため英国軍艦は戦備を整え、フランスは横浜に軍隊を上陸させるなど 事態は一触即発となる。この事態が緩和されたのは幕府が英国に44万ドルの賠償金の支払いを決定する6/24であった。

この短い江戸滞在中に写されたのが下に掲載した写真である。これらの中でもB写真の原題は「SATUMA’S PLACE-EDO」であることから現在の品川駅前 石榴坂にあった薩摩藩邸(後年勝海舟・西郷隆盛会談が行われた藩邸)を写したものとされてきたが、港区立港郷土資料館の松本健氏の調査で、この場所は現在三田2丁目の「綱坂」 であることが確かめられた。よって写真右手坂下は現在慶應大学となっている敷地で同じく右手坂上はイタリア大使館、 坂の左手は三井倶楽部となっている。同地は江戸期には右手坂下は備前島原藩松平家中屋敷、坂上は松山藩松平家中屋敷、左手は陸奥会津藩松平家下屋敷 ・日向佐土原藩の島津淡路守の屋敷となっていて写真の題はこの佐土原藩からとったものと思われる。

この画像の撮影について一行の団長であるエメェ・アンベールは「絵で見る幕末日本」の中で、
〜我々は貴族の家がある地域に入っていった。右側には、薩摩公所有の公園が美しい影を落としており、左側は播磨公の屋敷の塀になっていた。その角を曲がると、建物の正面に出た。
 ベアトがこれを撮影しようとすると、突然、二名の将校が飛び出して来て、すぐ撮影を中止するよう要求した。メトマン氏が、彼らに、彼らの主人がほんとうにそのようなことを欲して いるのかどうか、聞いてみてくれと頼んだ。将校たちはこの要求を入れて、数分後に戻って来て、「自分の屋敷の撮影は、一切許せない」と伝えた。ベアトは、丁寧にお辞儀をして写真機 をしまうと、将校たちは、彼の留守中に、すでに二枚撮っていることに気づかず、満足そうに立ち去っていった。

 この場の目撃者である警備の役人たちは、メトマン氏の狡猾な成功に親しい賞賛の言葉を送ったが、しかし、タイクンの城や墓地を撮影することには、断固反対した。 この反対には、われわれも手の下しようがなかった。〜
と記しており、写真は主人の返答待ちをしている間に隠し撮りされた様子が克明に描かれている。「絵で見る幕末日本」にはその後一行が、中の橋〜赤羽橋〜増上寺〜浜御殿(現在の浜離宮)〜愛宕へと進んでゆく様子が 記されているがCはその過程で撮影されたものと思われる。

Cは原題「The Arima Sama....Yedo」とされる画像で、現在の三田小山町付近、左手が筑後久留米藩有馬家上屋敷、中央の森が天祖神社(元神明宮)、左が筑前秋月藩黒田家上屋敷 が写されている。画像には道の中央に3人の立ちはだかるような武士と黒田家門にも一人の武士が写されているが、拡大するとさらに奥の天祖神社の階段で凝視する武士、社の石垣から こちらに向かう武士が二人写されているのがわかる。これらの武士からは殺気とも思える緊張感が伝わってくるが、これはこの写真が撮られた文久三(1863)年前後には攘夷事件が頻発し 、同年屋敷付近では清河八郎暗殺、善福寺襲撃などが行われ、さらに直前には幕府が朝廷に対して攘夷期限5月10日を約束する一方、幕府は各藩の攘夷実行を幕府忠誠の踏み絵として 見ており、また諸外国の動向も生麦事件が未解決であったため英国軍艦は戦備を整え、フランスは横浜に軍隊を上陸させるなどの時期で、翻弄される諸藩は大混乱の渦中にあるという 非常に緊張した時期であったためと思われる。

これらの画像の他にもベアトは庶民の生活を写した画像を多く残しているが、情景写真は港区内だけでも増上寺、溜池、浜御殿、愛宕などを撮影し、さらに多くの江戸市中も撮影している。 そしてこれらの写真は商業写真であると共に当時の状況から考えると、江戸市中を正確に写し取った「情報活動的」な要素も多分に含まれると見るべきだと思われる。

余談だが、フェリックス・ベアトが日本で活躍していた文久四(1864)年、エジプトで一枚の写真が撮られた。この写真は日本の武士がスフィンクスの前で記念撮影をするという奇妙なもので タイトルは「スフィンクスの前に立つ遣欧使節」、写真には撮影者「A.Beato」のクレジットが記されている。この写真は当初下関砲撃に従軍した後のフェリックス・ベアトが撮影したものかとも思われたが、「A.Beato」がフェリックス・ベアトかどうかは不明であった。 しかしこの疑問はフランスの「モニトゥール・ド・ラ・フォトグフィ」1886年6月1日号に掲載された記事により判明したという。写真の撮影者はフェリックスの兄で同じく報道写真を 手がけていたアントニオ・ベアトで、池田筑後守長発を団長とする第二次使節団(
横浜鎖港談判使節団) がエジプトを訪問した祭に撮影されたものである。
 
      
@古川橋付近から三之橋を遠望
      
A麻布山善福寺 アメリカ公使館
      
B島原藩下屋敷(綱坂)
      
C有馬家屋敷・元神明宮・黒田家屋敷
      
D赤羽橋から中の橋方面・有馬家屋敷
赤羽橋から中の橋方面・有馬家屋敷
      
E慈眼山光林寺 ヒュースケン墓
慈眼山光林寺 ヒュースケン墓
      
F高輪東禅寺 イギリス公使館
高輪東禅寺 イギリス公使館
      
G伊皿子長応寺 オランダ公使館
伊皿子長応寺 オランダ公使館





より大きな地図で ベアト麻布周辺の撮影地点 を表示


















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14.浅布原の首塚



慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで討ち取られた首は、江戸の家康のもとに送られ首実検の後、浅布(麻布)原に首塚を築き、増上寺の源誉上人、 玉蔵院忠義法師により供養された。塚自体が現存せず、正確な場所は分からないが増上寺隠居所あたりと言う説と、西町近辺という説がある。
武徳安民記には、
「慶長五年八月二十八日岐阜より使節参着して、再び尺素を献じ、首級をささぐ。其の員数福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八−−中略−−を大桶に入れて到着す。家康即ち実験し浅布の原に首塚を築き之を埋め、増上寺源誉玉藏院忠義に命じ供養せしむ」とある。

<関連項目>
続、麻布原の首塚

続、続麻布原の首塚
















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15.釜無し横丁



江戸の頃、絶江坂付近に貧しい長屋があった。食事に使う”釜”も長屋中で一つしかないほど貧しかったので”釜無し横丁”と、呼ばれた。 ここの住人達はこの名を嫌がり、氷川神社の祭礼の時、無け無しの銭をはたき張り子の大きな釜が乗った山車を作り、 汚名を返上しようとした。しかし、町内を巡行中に急に雨が降り出して山車が張り子であることがバレてしまい、よりいっそう貧乏が有名になってしまったという。
この話を聞いた時、落語かと思ったが、そうではないらしいが、
麻布七不思議のひとつでとして数えられることもある。

○麻布区史
今日の市立光明小学校[本村町]の付近にあった。むかし貧民長屋が多く、毎朝一つの釜を共有したので、この呼称は始まったといわれる。 もっとも長屋の人たちはこの呼称を残念に思って、ある年の氷川神社祭礼に、とぼしい財布から出しあって大釜の張子を作り、これを山車として 町内を曳き廻した。これを見た他町の人々は大いに驚嘆したが、このことがあってからますます釜無し横町の名は高くなったという。
○落語「黄金餅」
五代目志ん生は 十八番 おはこ の落語「黄金餅 」でハイライトである「道中付け」の最後に、
〜大黒坂を上がって一本松から、麻布絶口釜無村の木蓮寺へ来たときにはずいぶんみんなくたびれた。...あたしもくたびれた。〜
と釜無村を入れている。







<関連項目>
麻布七不思議
麻布七不思議の定説探し
圓朝のくたびれない黄金餅
麻布氷川神社
がま池
徳川さんのクリスマス〜麻布本村町(荒 潤三著)より
古川端薩摩屋敷の犬追い物
高野長英の隠れた麻布
麻布っ子、上杉鷹山
「麻布本村町」のがま池
圓朝のくたびれない黄金餅
麻布の歌舞伎公演−南座と明治座
二つの東福寺の謎
本村町の山車人形と獅子頭
本村町獅子頭の彫工後藤三四郎橘恒俊
麻布氷川神社祭礼の謎
麻布御殿(白金御殿)
寺坂吉右衛門










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16.天祖神社(元神明宮)



 
   
元神明宮
元神明宮
   
元神明宮・宮御輿
元神明宮・宮御輿
   
江戸名所図会・小山神明宮
江戸名所図会・小山神明宮
      
境内末社
銀杏大明神
      
2010年5月15日・稲荷祭
2010年5月15日・稲荷祭
      
御府内寺社備考1829(文政12)年発行・境内見取図
御府内寺社備考・見取図
      
文久3年(1863)年 Fベアト撮影写真
Palace of Arima Sama...Yedo[複数画像]
ベアト写真
      
銀杏稲荷明神
銀杏稲荷明神
本来、天祖神社を擁する小山町は麻布ではなく三田に属しているが、一の橋の真裏で昔ながらの町並みも大好きなので掲載させて頂く。

寛弘二年(1005年)一絛天皇の勅命のより開かれ、天照大神、水天宮を祭神とした。600年間人々の信仰を集めたが、徳川幕府による地割りの変更をうけ、 神霊を飯倉神社(芝大神宮)に移したが、土地の人達の熱意によりここにも留め置き元神明宮と称した。 隣地の久留米藩有馬公の庇護をうけ、一般より崇拝を受けていた水天宮は、分霊を残し明治初年有馬屋敷の移転と共に日本橋の現在地に移った。天祖神社 にはその他、平川稲荷、天白稲荷、大銀杏稲荷も祭られている。

<2010年5月23日追記>

○創建:寛弘2(1005)年
○祭神:天照皇大御神
○相殿:水天宮御分霊
○別名:神明宮 天祖神社 小山神明宮
○所在地:東京都港区三田1-4-74
○祭礼:9月15〜16日
○公式サイト:
http://www.mmjp.or.jp/motoshinmeiguu/
○末社:

・平河稲荷神社

元は江戸城内紅葉山に祀られ、徳川家光の御台所が信仰していたという。明治維新に際して元神明宮に祀られることになった。

 
・豊日稲荷神社

 
・和光稲荷神社

   
・天白稲荷神社

氏子内海家が大正11(1922)年に伏見稲荷より迎え守護神としたが昭和44(1969)年に当地に遷座した。

・槻根稲荷神社
以前大欅の根元に祀られていたためついた社名。

 
・権太夫稲荷神社
明治42(1909)年6月開通した一の橋→赤羽橋間の市電工事に伴い遷座した。

市電開通工事の際、樹齢400年といわれる銀杏稲荷神社(現在のパークコート麻布十番タワー・北西角)の御神木である二本の銀杏樹 のうち市電開通の際道路拡幅工事のため一本を伐採した。すると伐採した木を乗せたトラックは泥濘にはまり、運転手が大けがを負い伐採に 関わった人々も次々に原因不明の流行病や交通事故で亡くなった。
これを「稲荷の祟り」と恐れた地元住民の代表が京都・伏見稲荷社でお祓いを受けると災いはおさまったといわれる。
・白滝稲荷神社(銀杏稲荷神社)

銀杏稲荷神社(現在のパークコート麻布十番タワー・西側大通り面角)にあった銀杏稲荷社の分霊。 銀杏稲荷鎮座地は江戸期には秋月藩黒田邸、明治期には伊藤博文邸内であったと思われる。


以上いずれも宇迦之御魂神うかのみたまのかみ を祭神とする。

○由緒
平安時代の寛弘二年(西暦一〇〇五年)一條天皇の勅命により創建。 渡辺綱の産土神でもあり、多くの武人に崇敬を受けた。 江戸に入府した徳川家の命により神宝・御神体が飯倉神明(現在の芝大神宮)に移される際、氏子・崇敬者の熱意により境内に 御神体だけは渡せないと隠し留め、昼夜警護して守ったと伝わる。 以来、元神明宮と称され有馬侯を始め広く一般より今日まで多くの崇敬を受けてきた。  また社は、安産の神、水の神として崇拝されている水天宮が祀られており、 この水天宮は、文政元(1818)年、社に隣接する有馬藩邸内に、邸内社として領地の九州久留米水天宮から分祀され、 明治元年に有馬邸が青山に移転する際、当社にも御分霊を奉斎した。 後に青山の有馬邸内社は日本橋蛎殻町の旧有馬家中屋敷(現在地)に遷座した。  大正の関東大震災や昭和の東京大空襲等、多くの災厄から氏子・崇敬者の人々を守った事から、近年では厄除けの神社として 全国より崇拝されている。  また、境内地には、穀物の神である宇迦之御魂神(稲荷神社)を奉斎。大正14(1925)年に建造された旧御社殿の老朽化に伴い全面的な改築を行い、 平成6(1994)年六月、現在の鉄筋コンクリート造である近代的な御社殿が完成し、平成17(2005)年九月には御鎮座壱千年の記念事業がおこなわれた。




○御府内寺社備考[1829(文政12)年発行]の記述

神明
稲荷
社   (社地拝領地二百八十坪余)   三田久保町
 神明本社 (間口二間 奥行三間)拝殿 (間口三間 奥行二間)
  祭神雨宝童子(木立像、丈一尺一寸))
   右神明宮之儀者、往古飯倉神明之元地之由ニ申伝候故、元神明と唱候故ニ御座候、
○相殿不動明王(木造、丈二尺三寸五分) 歓喜天(銅像大一寸六分)
○木鳥居(高一丈一尺、明キ八尺) 
○祭礼定日毎年九月十五日 
○氏子町名三田久保町 当光寺門前町龍原寺門前町 久保三田町
○末社金比羅社(間口四尺五寸 奥行五尺五寸余)
神体不動(木像、丈二寸五分 弘法大師作)
○稲荷本社(間口五尺 奥行六尺) 
 平川稲荷大明神神躰正観世音(木像、丈一寸八分)
  右平川稲荷と唱候儀者、往古平川御門内ニ鎮座
 之由ニ申伝候間、平川稲荷と唱申、尤右鎮座
 之年代相知不申、候
 
○別当不動院天台宗東叡山末 
 当院開基開山等先年類焼之節記録焼失仕相知不申候、 




○2010(平成22)年6月の銀杏稲荷遷座

権太夫稲荷遷座で伐採された後に残された「もう一本」の銀杏稲荷御神木の銀杏樹は付近の銘木として町を見守ってきた。 この様子を「八広の爺ちゃん」サイト都電一代記−34系統」では、
〜道行く電車がこんなに小さく見える。それほど大きい銀杏が麻布中ノ橋から一ノ橋に行く道端にある。都内には芝や麻布、本郷、小石川、牛込 などに大銀杏が何本かあるが、いずれも公園や学校やお邸の中にあって、ここのように電車道にあるのは稀である。樹齢は400年近いと、 いわれ根元に銀杏稲荷大明神をお祭してある。小さな祠(ほこら)があって、油揚げがいつも2枚供えてある、銀杏のふもとで長いこと、 お菓子屋を営む横田さんは、「この大銀杏は、この辺りでは有名な目印で、私の店なんかに来る人には、赤羽橋から四方を見渡せば大きな 銀杏があるから、そのふもとが家だから・・・・・・・なんて教えればよかった。でも、最近は、電線に触れるといちゃ電灯会社が枝を下しに来るし、 随分小さくなっちゃって、冬なんか葉っぱがないから目印になりませんよ」と、いっていた。〜
と記して街のランドマークでもあった銀杏樹の様子を伝えている。

しかし、残念ながら 今年(平成22(2010)年)2月24日、幹の空洞化による倒壊の危険があるとして、この銀杏樹は伐採されてしまった。くしくも、やや後の3月には鎌倉・鶴岡八幡宮の 御神木倒壊が報道され話題を呼んだ。その後鶴岡八幡宮は倒壊した銀杏樹の根本にあった子孫の若木を植え直して新しい御神木とすることとなったが 銀杏稲荷もパークコート麻布十番タワー建設により西北角地から南西角地への移転となるのを期に、傍らに御神木の子孫若樹二本を植え「新しい 御神木」とした。遷座式は平成22(2010)年6月に執り行われるとのこと。


三田小山町は現在、未曾有の再開発が進み、それまでの町並みが大きく変わろうとしている。これに伴い街の顔も住民も大きく変わることが 予想されるが、今までと寸分変わらない地域的な価値観で二本の新しい若木の御神木を見守って頂けるよう願うばかりである。












<関連項目> 三田小山町














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17.三田小山町



 
      
三田小山町の位置(複数画像)
小山町の位置
      
三田小山町の立体地形図(複数画像)
三田小山町の立体地形図(複数)
      
江戸末期の小山町
江戸末期の小山町
      
ベアトが撮影した有馬家屋敷・中の橋
ベアトが撮影した有馬家屋敷・中の橋
      
喜鶴堂東都名所芝赤羽橋之図
安藤広重
喜鶴堂東都名所芝赤羽橋之図−安藤広重
      
文久3年(1863)年 Fベアト撮影写真
Palace of Arima Sama...Yedo[複数画像]
ベアト写真
      
秋月藩・黒田家縁戚の高鍋藩
秋月家墓所、四之橋光林寺
秋月藩・黒田家縁戚の高鍋藩・秋月家墓所、四之橋光林寺
      
明治初期の小山町
明治初期の小山町
      
三田製紙工場
三田製紙工場
      
明治45(1912)年地積地図
明治45(1912)年地積地図
      
東京さぬき倶楽部(旧讃岐会館)
(複数画像)
讃岐会館
      
東京さぬき倶楽部・中庭
三田八幡神社元地碑(複数画像)
東京さぬき倶楽部中庭・三田八幡宮古跡碑
      
麻布本村町町会会館に掲示されている
高良大神(武内宿禰命)の由緒書
麻布本村町町会会館に掲示されている額
      
御田八幡神社社地の変遷
御田八幡神社社地の変遷
      
芝札の辻に鎮座する
現在の御田八幡神社
芝札の辻に鎮座する現在の御田八幡神社
      
小山町の街並み(複数画像)@
小山橋から小山町町並み
      
小山町の街並み(複数画像)A
一の橋親水公園から見た小山町
      
小山町再開発事業
小山町再開発事業
 橋の写真を撮っている時見つけた町で、麻布に行くと必ず寄ってしまうようになった。橋の名前「小山橋」の由来をたずねた老婆に「だって小山町だから...。」と笑われた。それまで全く知らなかった。村の頃から麻布ではなく三田に属する。詳細な資料が手元にないので後日追記する。 一の橋公団アパ−ト真裏の小山橋を渡るとそこは別世界。私が生まれた頃の宮村町がそこにあった。わずか50メ−トルほどの町並みで、生活に必要なものがほとんど手にはいってしまう。お風呂屋、揚げ物屋、豆腐屋、布団屋、たばこ屋、くすり屋、八百屋、クリ−ニング屋、米屋少し離れてコンビニまで。 このお風呂屋がまた、たまらない。脱衣場には、ロッカ−じゃなく籠が置いてありそうなたたずまい。暖かくなったらぜひ入りに行くつもり。奥のほうには、自販機のないたばこ屋があった。ここも良い。会話しなければ買い物が出来ない。便利さを求めて置いてきてしまったものが、ここには沢山残っている。 バブル全盛の頃、おそらく目の前に札束を山と積まれても首を縦に振らなかった住民の方達に感謝したい。
そして地下鉄が出来ても、どうぞこのまま.....





○<追記2009年11月>
 前記文章は1998年頃のものであるが、あれから町の西側は再開発により2棟の高層住宅が建築されて、町の景観は一変した。 また町のモニュメント的な存在の「小山湯」も大正10年以来のは営業を終えて2007年に廃業した。そしてさらに現在も町の 中心部では再開発が計画されているという。小山湯横の階段に鎮座するお地蔵様は、この様変わりをどう見ているのだろうか.....。


○<追記2010年5月>




銀杏稲荷大明神が元地に遷座されるとのことで、これを機に再度三田小山町を基本から調べ直してみた。

○三田

  • 戦国時代までに、荏原郡三田郷として成立する。三田の名は、吾妻鏡の中の正嘉2年(1258年)3月1日の条にすでに記されている。
  • 江戸時代初期、三田郷の地に三田村が成立し、荏原郡に所属する。
  • 寛文2年(1662年)、三田村に商家が立ち並ぶようになり、その地域が三田一丁目〜三田四丁目、三田台町一丁目・三田台町二丁目などとして三田村から分離し、町奉行支配となる。これ以降、延宝年間までの20年ほどの間に計14ヶ町が次々と三田村から独立し、町奉行支配となった。このとき新たに成立した三田14ヶ町は、三田一丁目〜三田四丁目・三田台町一丁目〜三田台町二丁目・三田同朋町・三田久保町・三田古川町・三田豊岡町・三田老増町・三田南北代地町・三田台裏町・久保三田町。
  • 明治元年(1868年)、東京府成立にともない、三田地区の町と三田村は東京府所属となる。
  • 明治2年(1869年)、三田地区の一部に町域統廃合が行われ、三田久保町・三田南北代地町などが消滅し、代わりに三田小山町・三田松坂町などが成立する。
  • 明治4年(1871年)、三田二丁目に慶應義塾が移転してくる。
  • 明治5年(1872年)、三田地区の武家地・寺地が新たに町として独立することになり、三田四国町・三田綱町・三田南寺町などが起立される。
  • 明治11年(1878年)、芝区・麻布区の成立にともない、三田地区の町と三田村の大半は芝区に、また一部は麻布区の所属となる。
  • 明治22年(1889年)、三田村の残余部分(現在の目黒区三田)が隣接する荏原郡目黒村に編入され、三田村が消滅する。
  • 昭和22年(1947年)、芝区が麻布区・赤坂区と合併して新たに港区が成立する。それにともない三田地区の町名に「芝」の冠称がつく。
  • 昭和39年(1964年)7月1日、住居表示の実施にともない、三田地区のうち芝三田四国町・芝三田同朋町が港区芝に編入される。
  • 昭和42年(1967年)7月1日、住居表示の実施にともない、三田地区の大部分と周辺地域を併せて港区三田が成立する。また、三田台町三丁目・三田松坂町の一部は港区高輪となる。
  • 昭和44年(1969年)1月1日、住居表示の実施にともない、三田地区の残余部分(三田老増町)が港区白金となる。

    (出典:Wikipedia−三田)


●江戸期

◆久保(窪)三田・三田久保

三田小山わきの窪地にあるので呼ばれた。三田町分は三田久保、上高輪分は久保(窪)三田と呼ばれた。寛文2(1662)年町域となり町奉行支配地となったが代官支配地も残された。

◇文政町方書上

・久保三田町

当町起立の儀は、上高輪村石高のうちにて、小町につき芝伊皿子台町へ組み合い町用勤め申し候。もっとも、三田町分と入り組み候場所 につき、三田町分は三田久保町と唱え、上高輪町分は久保三田と相唱え申し候。もちろん、久保と唱え候儀は、書留御座なく相分かりかね 候えども、三田小山脇にて地窪の場所に御座候間、久保三田町と唱え候儀にもこれあるべきやに存じ奉り候。寛文二寅(1662)年中町御奉行 渡辺大隅守様御勤役中町方御支配に仰せ付けられ、御代官所へは上高輪町と書き上げ仕り候。

・三田久保町

当町起立の儀は、往古一円に三田村にて当町に上高輪町地所の分にて、久保三田町と上下相唱え候町これあり、右町は大抵地窪の場所に これあり候ゆえ、久保と相唱え候儀もこれあるべく候えども、当町は左にはこれなく地高の場に御座候えば、この辺り一円に久保と相唱え 候ゆえ三田久保町と相唱え来たり申し候。もっとも、石高などは、三田町同様に御座候。町屋家作御免に願い奉り候節の年月ならびに 御奉行様お名前など先年類焼の節、書留など焼失仕り相分かり申さず候。



久留米藩 有馬家屋敷(後の赤羽町・町域)

 江戸期の久保三田町・三田久保町は武家屋敷と寺社が町域の大半を占め、元神明宮周辺にわずかばかりの町屋が存在したに過ぎなかった と思われる。しかし隣接した有馬藩邸内西角には水天宮があったため、人通りは非常に多かったと思われる。賑わいの様子は、
・赤羽へ のして久留米の水天宮

・人波の尋ねくるめの上屋敷 水天宮に賽銭の波

・赤羽の流れに近き水天宮 うねるようなる賽銭の波

・商いも 有馬の館の水天宮 ひさぐ5日の風車うり

などの句からもその繁盛さが伺える。

 この水天宮の他にも有馬家には将軍綱吉から拝領した犬を行列時先頭に歩かせたので「有馬の引き犬」とよばれる名物行列、また大名火消であった有馬家は他よりも 高い火の見櫓を藩邸内に持つことを許されていた。前者の「引き犬」は水天宮での「犬帯」販売に直結していたと思われ、さらに水天宮は月に一度の開門日以外参拝者は 門外から賽銭を投げ入れる習わしであったので、列をなして押し寄せる人波も次々と処理できたと思われ、その収入は莫大なものであったことが想像される。 また火の見櫓については、

・湯も水も火の見も有馬 名がたかし

・火の見より 今は名高き 尼御前

などと詠まれた。この火の見櫓は現在の三田高校・赤羽小学校辺に幕末まで現存しており、三田丘陵山腹からひときわ高くそびえ立っていた 様子は、当時のランドマークタワーとしての役割も備えていたと考えられ、赤羽橋近辺を描く画には増上寺「五重の塔」と共に必ず描かれている。 幕末にこの有馬藩邸を赤羽橋方面から中の橋に向けてイギリス国籍の写真家フェリックス・ベアトがパノラマ写真を残しているが、残念なことに 火の見櫓は画角から外れている。そしてこの火の見櫓を舞台とした演劇も作成され、この屋敷と共に「化け猫騒動」の舞台として描かれている。 現在赤羽小学校に保存されている「猫塚」はこの演劇話を元に後世作成されたものだと思われるが、その素性は明らかではない。 この猫塚についての詳細はこちらからどうぞ。

余談だが、「西国の果てまで響く芝の鐘」と詠まれた川柳で芝増上寺の梵鐘は「九州まで届くほどの豊富な音量」を揶揄されているが、実際には増上寺周辺の 芝・三田辺に薩摩藩邸・佐土原藩邸・久留米藩邸・秋月藩邸など九州外様大名の各屋敷が集中していたための洒落である。

○秋月藩 黒田家屋敷(後の小山町・町域)

その有馬家に隣接して筑前秋月藩五万石・黒田甲斐守の上屋敷があった。 筑前秋月藩は豊臣秀吉の参謀黒田如水の子長政が関ヶ原合戦の恩賞により筑前一国52万3千石を拝領し、長政三男の長興によって立藩 された筑前福岡藩の支藩である。藩領の筑前秋月はその名通り秋月氏の所領であったが豊臣家による九州征伐において島津氏に味方して全面敗戦 となり高鍋へと所領変えとなる。その後秋月氏は関ヶ原合戦で西軍で参加するも、裏切りの恩賞により高鍋の所領を家康により安堵されている。江戸期にはこの 高鍋藩秋月氏と秋月藩黒田氏は縁戚関係を結び、
・高鍋藩七代藩主・秋月種頴たねひで、上杉鷹山兄弟の母は秋月藩四代藩主・黒田長貞の娘「春姫」。

・秋月藩八代藩主・黒田長舒ながのぶは秋月種頴の二男。

ちなみに秋月種頴は秋月種茂たねしげの後年の名前で、英邁な主君として名高い。弟は 10才で上杉家に養子縁組した上杉治憲、のちの上杉鷹山である。この高鍋藩秋月家の上屋敷は現在の麻布高校敷地にあり、秋月の羽衣松・寒山拾得の石像・夜叉神像 など麻布の伝説とも縁が深い。

○大和郡山藩 松平家屋敷(後の小山町・町域)

 黒田家西隣には大和郡山藩・松平家の下屋敷がある。江戸期の地図などにも松平家となっているのでわかりづらいが、元の名字は柳沢で 事実上の藩祖は五代将軍徳川綱吉の側近で、小身の小姓から大老格まで異例の大出世をした柳沢吉保である。この出世に伴い元禄14(1701)年、将軍の名前「吉」を 与えられて吉保と変名、姓も松平姓を授かり、以降柳沢から松平を名乗ることとなる。またこれに伴い所領もそれまでは徳川一門にしか与えられなかった甲府一五万石 を拝領した。これらからも将軍綱吉の柳沢に対する偏愛ふりが想像できる。その後綱吉死去と共に柳沢吉保も自ら失脚を予想して引退し、家督を長男の吉里に譲った。 この素早い変身により領地は大和郡山に移転されたが石高はそのまま幕末まで引き継がれた。

幕末期、この柳沢屋敷は天災とも思える不慮の事故に巻き込まれることとなった。それは清河八郎が門前で暗殺され、首は清川の一味により持ち去られたが、胴体は うち捨てられたままとなっていたので当時の慣習として遺骸から一番門の近い屋敷の持ち主がその処理をすることとなっていたので、清河八郎の胴体は柳沢家 によって宮村町正念寺に葬られた。この話の詳細はこちらからどうぞ。

○Palace of Arima Sama...Yedo
 前述したイギリス国籍の写真家フェリックス・ベアトは多くの写真を江戸市中で残しているが、この近辺でも赤羽橋、柳沢家門前、綱坂、古川橋など 特に多数の写真が残されている。これは文久3(1863)年12月、スイス外交団団長 で友人でもあるエメェ・アンベールが来日したおりに横浜在住であったベアトは臨時随行員となり、当時は外交使節しか許可されない江戸入りした 際にほぼ同日に撮影されたものと考えられている。両者の共通点は江戸での滞在をオランダ公使館であった伊皿子の長応寺としていたことから知己を得たものと想像される。 これらの写真の中でも特に興味を引かれるのは、三田小山町にあった柳沢家屋敷が右手に、左手に有馬家屋敷が写され中央には元芝神明宮が写されている写真である。 この写真を拡大すると柳沢家家中と思われる手前の四人は殺気立っているように見え、その後ろの元芝神明宮階段に一人、そして石垣沿いにさらに2名がこちらを注目 しているのが確認できる。 この時期1863(文久3)年頃は、
・安政6年(1859年)−横浜でロシア軍艦乗員2名暗殺。

・万延元年(1860年)3月−桜田門外の変で、井伊大老暗殺。

・同年5月−イギリス領事館通訳官伝吉が東禅寺で刺殺。

・同年12月(西暦1861年1月)−アメリカ公使館書記兼通訳官ヒュースケン中の橋で殺害。

・文久元年(1861)年4月−高輪東禅寺英国公館襲撃(第一次襲撃事件)

・文久2年(1862)年1月−御殿山英国公使館焼き討ち事件

・同年4月−高輪東禅寺英国公館襲撃(第二次襲撃事件)

・同年8月−生麦事件

・文久3年(1863)年4月−清河八郎暗殺

・同年4月−麻布山善福寺アメリカ公使館が攘夷派の襲撃を受ける

・幕府が朝廷に攘夷期限を五月十日と奉答

同年4月頃?−アンベール・ベアト江戸巡行・撮影(三田小山町など撮影?)

・同年5月−下関事件

・同年7月−薩英戦争

など攘夷派による外国人の襲撃が相次いで行われていた時期で、諸外国外交官以外、民間人の江戸滞在は出来なかった。これによりベアトもあくまでもアンベールの 臨時随行員としての江戸入りであり、その一行も幕府からの警護役人を伴っての江戸巡回であった。 また有馬藩邸・元芝神明宮・秋月藩邸を写した写真(原題:Palace of Arima Sama...Yedo)は正式にはベアトのものとは断定されていない。しかし同日撮影された綱坂・島原藩邸写真(写真の原題が「Satsuma`s Palace..Yedo」となっているため、 以前は石榴坂薩摩藩邸を撮影したものといわれていたが、最近港区郷土資料館の研究により綱坂であることが判明した。)・赤羽橋から有馬藩邸写真 などと同日に撮影された可能性が高いといわれている。



●町名の由来

町の沿革は江戸期に久保三田町、三田久保町、寺院門前町であった地域が明治2(1869)年「三田小山町」として成立した。
・三田小山町−芝区史

芝区西隅の一角、古川の流域に三田丘陵が急傾斜で落ち込まうとする處に、本町がある。 江戸時代に三田久保町及び竜源寺、当光寺門前と唱えた箇所及び円徳寺、大乗寺、長久寺、大中寺等の寺地を併せ、明治二年、古来の通称に従ひ 三田小山町と称した。一体、三田小山の名は今の三田綱町、三田一丁目、赤羽町の方面までの広い地域を称したのであったが、現在は本町のみに 限られてしまった。明治五年華族黒田長従邸(元黒田甲斐守邸)及び松平時之助(元郡山藩)邸をも合せて其町域を拡張した。本町十番地所在の天祖神社 は赤羽簡易保険局の後方に介在しているが、此天祖神社前の横町を巣穴と唱え、二の橋東詰に下る坂を日向坂といふ。これはむかし、此辺にて毛利日向守の邸が あるに因ると伝ふ。
本町南部の高台は、寺院街及び邸宅街で当光寺、教誓寺、龍原寺、長久寺、円徳寺等があり、二七番地には伊藤博文の息貴族院議員男爵伊藤文吉邸があり 、六番地には下町情調の描写を以て令名のある文芸家久保田萬太郎の住宅がある。北部の一帯は、古川流域の低地で電車通を隔てて新門前町に対し、小工場、商店、 中小の住宅が密集している。


・三田小山町−東京市史稿

明治2(1869)年、久保三田町・三田久保町・三田竜源寺門前・三田当光寺門前を合併して新たに三田小山町とした。


・三田小山町−三田小山町児童遊園旧町名解説板

芝区西隅の一角、古川の流域に三田丘陵が急傾斜で落ち込もうとするところにあります。江戸時代、三田久保町、竜源寺門前 当光寺門前および円徳寺、大乗寺、長久寺、大中寺等の寺地を併せ、明治二(1869)年、古来の通称に従って三田小山町と称しました。 明治五(1872)年、華族黒田長従邸(元黒田甲斐守邸)および松平時之助(元郡山藩)邸をも併せてその町域を拡張しました。


・小山−文政町方書上

三田当光寺門前・三田竜源寺門前の一帯は高い場所なので小山と唱えた。


・小山−新選東京名所図会

小山を汎称するところは綱坂上・三田綱町と三田一丁目の一部にわたる。地勢が高く、一帯は小山であるからである。


・小山−芝区史

三田小山の名はいまの三田綱町・三田一丁目・赤羽町方面までの広い地域の総称である。




神明宮へと下る坂は「神明坂」と呼ばれ、周辺の町屋は里俗に「鼠穴ねずみあな巣穴すあな」と呼ばれていたという。 これは明らかに古川対岸の丘陵部「狸穴まみあな」 を意識した地名であると思われ、
○江戸町鑑

久保三田町の元神明前横町を鼠穴と唱えた。


○芝区史

三田小山町の天祖神社前の横町を巣穴という。


○港区史

天祖神社前の道を鼠穴とも巣穴ともいう。


などと書かれている。



●明治期

明治期になると小山町の隣、赤羽町の町域となる久留米藩有馬邸の敷地は、
1871年(明治4年)
明治政府の命(廃藩置県)により久留米藩有馬家上屋敷と水天宮は赤坂に移転し、跡地には工部省所管(赤羽製作所、後に赤羽工作分 局)が設置される。
1872年(明治5年)
水天宮が赤坂から日本橋蛎殻町の有馬家・中屋敷内(現在地)に再度移された。
1883年(明治16年)
赤羽橋跡地が跡地海軍省所管(兵器局海軍兵器製作所、後に海軍造兵廠)となる。
1902年(明治35年)
海軍造兵廠時代「猫石」が表門内正面に移設される
1910年(明治43年)
海軍造兵廠が築地海軍用地に移転し「猫石」も築地に移設される。
1923年(大正12年)
海軍造兵廠が海軍技術研究所となるが震災で損害を受けたことから 昭和5年東京市に中央卸売市場用地として譲渡し、目黒の現地点(防衛省戦史資料室)に 移設。

 赤羽橋の造兵廠跡はその後長らく「有馬っぱら(有馬ガ原)」と呼ばれた空き地となっていて、「有馬ガ池」があって近所の子供達の釣り場に好適地だったそうたが、1915年(大正4年)12月 1日に北里柴三郎を初代の院長として済生会中央病院が建設され、大正11(1922)年に府立第六高女(現在の都立三田高校)が出来、その隣地には大正15(1926)年赤羽小学校が出来た。 そして昭和40年代まで済生会中央病院および三田警察署が位置していた。その後、済生会中央病院立て替え費用捻出のため敷地の一部がに三菱地所に売却され三田国際ビルが建設される。

一方明治以降の藩主有馬家末裔は日本橋藩自邸の一部をを有馬小学校として東京市に寄付、東京帝国大学助教授就任、夜間学校開設、女子教育啓蒙など社会事業を手がけ、現在の当主は東京水天宮 の権禰宜を勤めている。余談だが、最後の藩主有馬頼咸の孫に当たる有馬頼寧は上記社会事業や政治家としても貢献し、太平洋戦争後には一時公職追放期間を経て日本中央競馬会第二代理事長として 活躍し、昭和32(1957)年プロ野球オールスター戦からヒントを得て「中山グランプリ」を開催する。しかし第一回中山グランプリ開催中に有馬頼寧は急死してしまい、このことから第2回中山 グランプリ以降は有馬頼寧にちなんでレース名を「有馬記念」と改称し現在に至っている。

 旧町名解説板には明治5(1872)年黒田家屋敷・柳沢家屋敷が町域となったとあるが、これは前年の明治4年に天皇の名で廃藩置県が発布され たことによる。これにより黒田家屋敷敷地を2分して黒田長従屋敷と伊藤博文の屋敷が構えられた。また旧柳沢家屋敷跡地も分割され、 表通り古川側の角地には幕末の薩摩藩家老調所笑左衛門広郷の三男で、札幌農学校初代校長・札幌県令・高知県知事・鳥取県知事・ 貴族院議員などを歴任し、男爵に叙されて華族となっている調所広丈が屋敷を構える。

江戸期の当主・調書笑左衛門広郷ずしょ しょうざえもん ひろさとは藩主島津斉彬(天璋院篤姫の義父)により引き立てられ家老にまで出世する。しかし、笑左衛門が薩摩藩密貿易を幕府から詰問されて 芝藩邸で急死(幕府が藩主への追求することをを見越して引責自害したとされている)すると「お由良騒動」で笑左衛門と敵対失脚した斉彬の父である島津斉興の側室で三田の町家生まれ(三田の八百屋の娘説も)のお由羅の方、 その子供で薩摩藩の事実上の藩主・島津久光により調所家遺族は徹底的な報復迫害を受けた。そして明治となった時代でもその影響からか調所広丈は名字の読みを本来の「ずしょ」から 「ちょうしょ」と変更している。余談だが私の旧知の友人も姓を「ちょうしょ」と読む調書家の末裔である。これは薩摩藩から明治の元勲となった西郷隆盛、大久保利通らが 久光により下級武士から引き立てられてた久光派でだったので、旧主人の怨念を諫言することが出来なかったためと思われる。

しかし、そもそも莫大な赤字財政に苦しんでいた薩摩藩を短期間で救済したのは調所笑左衛門 ならではの実力で、最近は薩摩藩が後年に討幕運動を展開できるほどの資金力を有したのも調所笑左衛門の政策立案・実行(借入借金の棒引き、琉球密貿易)の結果。との説が定説となっていて現在は、 調所笑左衛門の功績は完全に見直されている。

この小山町に住んだ調所広丈には面白い逸話が残されている。

 明治初期小山橋付近には三基のかなり大規模な水車小屋があった。明治20(1887)年このうちの一基の水車がそれまでの 製紙機器製造から米搗き水車へと用途を転換したい旨の「転業願」が所有者の松本亥平により東京市に提出された。 これに対して対岸の三田小山町に住む調所広丈より転業を認めないでほしいという嘆願書が東京市に提出されている。 これによると、数十もの臼を搗く振動が家屋を破損させる恐れがあり、その騒音で付近の住民は安眠できないと思われるので許可 しないように。というものであった。これにより同年5月2日には松本亥平は警視庁から度重なる取り調べを受け、実際に騒音公害などが 起こりえるものかを質問されたようだ。そしてその結果米搗き水車への転業は止めて、活版印刷業に転換することを決定した。この様子は東京府から 警視庁宛に通牒按が提出され、その顛末を報告している。

 この記事を調所広丈によるオーバーな表現と感じる方も多いと思うが、この頃の水車は田園でのどかに廻るものとは大きくかけ離れ、水輪の輪転により 100あまりの臼を同時に搗くものも珍しくなく、水力を使った大規模工場と化していた。また同時期にのちの渋谷駅前となる宮益橋では三井家総本家当主の 三井八郎右衛門が、天現寺橋付近では福沢諭吉が水車場を経営しており、それらの水車は完全に工業機械としての役割を担っていた。またこの小山橋付近の 松本亥平水車場は当初青山八郎右衛門が新設したものでありこの時にも共同名義人として名を連ねている。この青山八郎右衛門は調書家から古川の対岸に当たる 一之橋交差点付近に屋敷を構えていた実業家で明治期は天現寺橋から一之橋先までの古川護岸工事を個人で行い、後にその土地を販売して日本でも有数の富豪となった。 またこの青山家は江戸期の幕臣青山家であり、クーデンホーフ光子となる青山光子と八郎右衛門の妻は従兄弟の関係にあたり、八郎右衛門の子供は昭和期まで同地に在住 していた。 当初この開拓地は「八郎右衛門新田」と呼ばれたが明治中期には宅地化が進み「麻布新広尾町」として起立することとなる。 青山八郎右衛門と水車についての詳細ははこちらを参照されたい。



 水車の項で三基の内一基が製紙機器製造から活版印刷へと業種変換したことをお伝えしたが、このうちどちらの業種も紙に関係した職業である。 そして、これは麻布新広尾町にあった水車場の対岸である三田小山町後に架橋される小山橋付近から現在の讃岐会館先まで日本でも有数の大規模な製紙工場 があったためと思われる。 この製紙工場の正式な名称は「三田製紙所」といい旧薩摩人で当時米穀取引所頭取であった林徳左衛門が、アメリカ人ドイルとの共同出資で 明治8(1875)年に三田小山町に設立し、地券用紙などを抄造した。この工場は大阪の蓬莱社製紙部、京都のパピール・ファブリック、神戸の神戸製紙所、 日本橋蠣殻町の有恒社、王子の抄紙会社(後の王子製紙)などと共に日本でも草分けの製紙工場であった。 また明治13(1880)年に真島襄一郎へ工場が譲渡される際に記念として同郷人の床次正精とこなみ まさよし により描かれた油絵「三田製紙所全景」が残されている。そして後年工場敷地の一部は、 元摂津尼崎城主 桜井(松平)子爵家、貴族院議員・農務省総務長官の藤田四郎氏本邸などを経て、昭和26(1951)年に香川県が購入。昭和47(1972)年に国立能楽、 東洋英和女学院小学部、乃木神社・会館、普連土学園などを手がけた大江宏による讃岐会館(現・東京さぬき倶楽部)となり、 その庭園には明治24(1891)年に建立された 「御田八幡古跡碑」が現存している。
 
      
麻布周辺の源氏Map
麻布周辺の源氏Map
      
坂名
坂名
 この碑は和銅2(709)年東国鎮護の神として牟佐志国牧(枚)岡の地(現在の白金・四之橋付近?)から300年後の寛弘8(1011)年、当時武蔵国御田郷 久保三田とよばれたこの地に遷座し、寛文2(1662)年に現在の社地(芝札の辻)に遷座するまでの 約650年間御田八幡神社がこの地にあったことを表す碑である。碑の両側には当時のものと思われる狛犬があり宝暦7(1757)年の年号が「飯倉町中」の文字と共に刻まれている。 またさらに昔の元地である「牟佐志国牧岡の地」は白金付近を指しているとのことらしいが昨年麻布本村町町会関係者が御田八幡神社の祭礼に参加するとのことを聞き及び、 麻布氷川神社の氏子町会である本村町が何故?と疑問に感じたが、この「牟佐志国牧岡」には本村町も含まれていた可能性が強く、本村町会館にも御田八幡社御祭神の一つ 高良大神<こうらおおかみ(武内宿禰命たけのうちのすくねのみこと)の由緒書が 額装されて掲示されている。源頼光の四天王の一人である渡辺綱の産土神とされ「綱八幡」とも呼ばれ嵯峨現時渡辺一党の氏神として尊崇された御田八幡神社は この事から笄橋、 一本松、麻布氷川神社に残された麻布周辺の源氏伝説も更なる関連性を持つこととなると思われるが、遷座した久保三田(三田小山町)周辺にも綱坂、綱の手引き坂、綱産湯の井戸など 源氏との関わりを残しているのが興味深い。そして約1000年前に久保三田(三田小山町讃岐会館辺)に遷座した三田八幡社と麻布本村町がいまだに関係を持ち続けていることは特記に値する と思われる。

 その他にも、27番地に伊藤博文の子息で貴族院議員男爵の伊藤(木田)文吉邸、江戸期に鼠穴とも呼ばれた6番地には文芸家・久保田万太郎の住居があった。 またラグーサ玉の夫で工部美術学校で彫刻指導にあたったヴィンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa)の宿舎が小山町(現・三田1−11)にあった。 ラグーサ玉の墓は麻布宮村町長玄寺にあり、後に夫となるヴィンチェンツォ・ラグーザの弟子には現在有栖川記念公園(南麻布)となっている敷地にあった イギリスの建築家コンドルの設計によるルネサンス様式の有栖川宮邸の舞踏室壁面彫刻作者であり、陸軍参謀本部前に設置されていた(戦後の道路拡張に伴い 有栖川公園広場に移設)「有栖川宮熾人親王騎馬像」、靖国神社「大村益次郎像」などの作者でもある大熊氏広がいる。


●坂名

○町内

神明坂
天祖神社の別称「元神明」からついた名。
日向坂
別名ひなた坂。坂の南に徳山藩毛利日向守の屋敷があったため。
○近隣

綱坂
源頼光の四天王・渡辺(源)綱の生誕伝説からついた名。
綱の手引き坂
別名小山坂・姥坂、馬場坂。
渡辺綱が幼少の砌に姥に手を引かれて行き来したという伝説による。


 このように数々の歴史を重ねてきた三田小山町だが、現在再開発事業により残念ながら街が大きく変わろうとしている。A地区・B地区はすでに再開発が完了して、高層住宅の建設により旧来の町並みは 消滅した。さらに最大規模の再開発となるC地区再開発も予定されており、これにより旧来の町並みはわずかに鼠穴辺を残してほぼ完全に姿を消すこととなる。

以上、今回は三田小山町の北部中央部を中心にお伝えしたが、機会があれば南部地域の江戸明治期などもお伝えしたいと考えている。



●その他三田小山町関係特記事項
 
      
アサップル伝説ピリカの島
アサップル伝説ピリカの島
   
三田小山町−「とりづか+こまつ」


★アサップル伝説ピリカの島
 この三田小山町のある三田一丁目丘陵は太古の昔、内陸まで入り込んだ海により台地から孤立した島であったとする説があり、別項でご紹介した池田文痴庵などによる 麻布アイヌ語説のアサップル伝説で語られている「ピリカの島」はこの小山町の高台部分を指すものと思われる。





♪三田小山町−「とりづか+こまつ」
 この町の様子を三田小山町ご出身でワイルドワンズの鳥塚しげきさんが、「とりづか+こまつ」というユニットを結成して 1975年に発売したアルバム曲「三田小山町」をリメイクし「なんでも鑑定団」でお馴染みの北原照久氏の 「湘南佐島レコード」レーベルから発売されています。昭和30年代の三田小山町を唄ったこの曲は必聴です!

曲の詳細はこちらからどうぞ!→Torizuka Shigeki Offical Site

またこのCDのジャケットは昭和ノスタルジックな画風でおなじみのイラストレーター「毛利フジオ」氏が手がけており、合わせて毛利フジオ画集などを ご覧になることをお勧めします。









      
綱町三井倶楽部
綱町三井倶楽部
●三田小山町周辺

○綱町三井倶楽部
三田小山町南側に隣接する三田綱町にある建築物。1913(大正2)年竣工、島津佐土原藩邸跡に三井総領家(北家)第10代当主三井八郎右衞門高棟がジョサイア・コンドルに設計を依頼し建築で三井財閥の迎賓館として使われた。 その後関東大震災での破損補修が1929(昭和4)年完了し、太平洋戦争後1945(昭和20)年に「米軍将校クラブ」として接収され同28年返還。その後は三井グループ企業による 会員制倶楽部となる。 最近まで佐土原藩邸の長屋が現存したが、道路拡張により撤去された。延べ面積:2,876m2。




○その他周辺
      
かんぽ生命保険東京サービスセンター
(旧逓信省簡易保険局)
1929(昭和4)年竣工
かんぽ生命保険東京サービスセンター
      
イタリア大使館
イタリア大使館
      
綱坂横の几号
綱坂横の几号













<関連記事>

天祖神社(元神明宮)
小山橋の八郎右衛門水車










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18.櫻田神社



 
   
櫻田神社正面
櫻田神社正面
   
JRAビルに展示された櫻田神社神輿
JRAビルに展示された櫻田神社神輿
   
初詣の賑わい
初詣の賑わい
   
寛永江戸全図の櫻田神社
寛永江戸全図の櫻田神社
祭神:豊宇迦能賣大神(とようかのめのおおかみ)
創建年代:治承四(1180)年
創建:源頼朝の命により渋谷庄司重国が創建
祭礼:9月22日
麻布稲荷七福神(戦前)・港七福神(現在):壽老神
末社:福寿稲荷
別名:霞山稲荷とも呼ばれる
所在地:港区西麻布3−2−17


桜田町、霞町の町名の由来であり、東京(江戸)最古の地名でもあるこの神社は、元々霞ヶ関近辺にあり霞ヶ関、桜田門の名の由来とは同根である。 治承4年(1180年)渋谷重国が狩りをした時、霞ヶ関の霞山を焼き狩しようとすると、白い狐が現われ天に向かって気を吐くと、十一面観音が現れた。 重国は驚き頼朝に乞うて創建した。その後、源頼朝が奥州征伐の際神領を寄進し、
田に印の桜を植えたので「桜田」と呼ばれ太田道灌にも崇敬されたが、 後北条の攻撃で炎上、その後家康入府の後に溜池に移り、寛永元(1624)年ころ現地に移った。この際、元地の百姓も共に移ったので、桜田町を 別名百姓町とも言った。
私の小さい頃この前の通りは、桜田通りと呼ばれたが現在は「テレビ朝日通り」と言うらしい。

江戸期には太田道灌の甲冑が寄進され御神宝とされていたが 弘化二(1845)年1月24日におこった青山火事により惜しいことに焼失した。 幕末には沖田総司、乃木希典将軍の参詣し、乃木将軍の着用した産着は櫻田社に寄進された。(現在は乃木神社に譲渡され社宝となっているという)、また 硫黄島で玉砕したロサンゼルスオリンピック馬術競技の金メダリスト「バロン西」こと西竹一陸軍中佐も櫻田神社の氏子であった。そして、 遷座前の氏子区域である西新橋一帯(芝桜田)は現在も一部区域が櫻田神社の氏子となっており、日本中央競馬会正門にも神社の由緒書が掲示されている。 桜田町そして明治期からは霞町の町名は櫻田神社を由緒としている。


○JRAビル展示神輿に添えられた由緒書
桜田神社 縁起より

古えは、この付近一帯を桜田郷と呼ばれ、桜木八千余本を数えたという。治承五年「一,一八一年」渋谷庄司重国が、 霞山「現在の霞ヶ関」に霞山稲荷「桜田神社」を建立、後に太田道灌が、文明年間「一,四七〇年頃」これを新しく造営した。
江戸時代にい至り、幕府は霞山稲荷を慶長七年「一,六〇二年」赤坂溜池に移し、更に寛永元年「一,六二四年」麻布桜田町「現在の西麻布」 に移された。このような歴史背景から、江戸時代には、桜田八ヶ町としてこの一帯の町名に、芝桜田備前町、芝桜田太左エ門町、芝桜田久保町 などと桜田を冠せられた。当町会の前身であった芝新桜田町の昭和三二年まで残った。

日本中央競馬会本部の前の通りは、江戸城の濠端で、柳の並木を配し、河岸通りと呼ばれ、当時日本橋にあった魚河岸への道として往還の賑わい をみせたという。明治になり文明開化が進むにつれ、お濠が埋められ河岸通りの面影も消えて、次第に芝桜田の界隈は、東京の中心地と変化していった。
戦前の新桜田町は、三二〇世帯、人口約二,〇〇〇人であった。
町名が、昭和三二年に田村町一丁目、昭和四〇年に西新橋一丁目と改められても、桜田郷の鎮守である桜田神社を氏神様として、崇めている所以である。
競馬会玄関前の広場は、戦前戦後とも町の中心で、色々と町会行事が行われたものである。
秋祭りには御神酒所を設け、麻布のお宮からの神輿巡行は、千貫を超す大神輿を牛車によって行う一大イベントであったという。今日では当時の面影はないが、 芝桜田の地に往年の想いをはせ、史実としてこれを後世に伝えることは意義深いものであり、戦後再建された神輿や太鼓を飾ることができたことは、 日本中央競馬会のご尽力によるものと深く謝意を表す次第である。

平成六年九月吉日

西新橋一丁目第一町会

町会長 森野平太郎

氏子総代 本田健次





○蜀山人
江戸期には大田南畝(蜀山人)が「春のはじめ麻布さくら田町霞山いなりの前にて」として、
やがてさく さくら田町のさくら麻の 麻布のほとり まづかすみ山
とよんでいる。また同じく江戸期には桜田町は、
櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛
と詠まれており、その高台に位置する町域の標高(櫻田神社鳥居辺の標高は30.85mとのこと)から詠まれたと思われる。 以前の鳥居(石華表)には明治初期の几号水準点が彫り込まれていたが、改築により残念ながら現存しない。



○追記
乃木将軍が櫻田神社に産着を奉納したのは、乃木家が日ケ窪の長府藩毛利邸の長屋(現六本木ヒルズ)であったという 地理的な条件から近間の氏神様に奉納したものと考えていた。しかし、乃木家の本性は宇多源氏出雲佐々木流の佐々木氏で 佐々木四郎高綱の二男、二郎左衞門尉光綱が出雲國意宇郡野木(乃木)保を領して乃木氏と称するようになったといわれている。 現在の櫻田神社社家は明治初頭に天皇の関東下向に伴い追随してきた「佐々木氏」であり、 この事実は櫻田神社社家に依頼して家系図にても確認していた頂いたことからも、その因果は偶然とは思われない。 これらの事実からも櫻田神社と源氏の結びつきは古来より近代までと非常に深いものがあると思われる。

<関連項目>


・櫻田神社宮司のブログ(外部リンク)
・桜田町に過ぎたるもの(その−1)
・桜田町に過ぎたるもの(その−2)
・麻布の句・川柳・地口・言回し・唄
・港七福神
・乃木希典(その1)
・乃木希典(その2)美人コンテスト
・沖田総司(その1)
・鈴ヶ森の殺人
・振り袖火事(明暦の大火)
・麻布の几号水準点
・篤姫行列の麻布通過
・麻布近辺の源氏伝説(総集編)











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19.ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の弐)



 
   
麻布山善福寺
麻布山善福寺
   
ハリス顕彰碑
ハリス顕彰碑
   
境内案内図
境内案内図




安政3年(1856年)7月21日、総領事タウンゼント・ハリスを乗せたアメリカの軍艦”サン・ゼシント号が突如下田に入港した。 大統領の信任状を示し、上陸。困惑する下田奉行をよそに、同28日に下田郊外柿崎村の玉泉寺に駐留。8月5日には、領事館旗を掲げた。その後8月25日には幕府も渋々、駐留を認めた。
玉泉寺駐留の翌日にサン・ゼシント号は帰途に就いてしまったので、砲艦外交も出来なくなり
通訳のヒュ−スケンと通商条約の締結に奔走した。が幕府は、引き延ばし工作を行い憔悴の日が続いた。
翌、安政4年2月16日、下田奉行井上清直との間に長崎の開港、アメリカ人居住権、領事旅行権、犯罪人処分法など9項目にわたる条約を締結した。がハリスはこれとは別に、自身が江戸で幕府当局者と、直接新しい条約の交渉をする事を強く希望。これは、下田奉行には、交渉決定権がなく一々江戸に伺いを立て、交渉の引き延ばしを図ったためで、幕府も苦慮の末8月14日江戸出府の許可を布告した。 10月21日、ハリスは江戸城に登城、将軍家定に大統領の親任状を提出。翌日、老中堀田正睦に会い通商の必要性を説いた。これにより幕府は、目付の岩瀬忠震、下田奉行の井上清直を委員とし通商条約の審議に入った。
安政5年1月5日条約の審議が終わったが、幕府は勅許の必要を理由に調印の2ヶ月延期をハリスに要請、老中堀田正睦を通商条約の勅許を得るために京都に参内させた。が公卿が勅許反対の圧力をかけたため、再度協議せよとの勅諚が下った。その後も、度重なる調印延期要請にたまりかねたハリスは、江戸沖に軍艦ポ−ハタン号を乗り入れて幕府を脅迫したため、6月19日勅許のないまま日米修好通商条約が、調印された。 これにより6月24日に前水戸藩主徳川斉昭らが登城の上、井伊大老らを詰問したが7月5日彼らは処分を受けた。
そして8月水戸藩への陰謀疑惑をきっかけに、安政の大獄が始まる。この大獄の嵐の中、安政6年6月27日ハリスは、総領事から公使に昇格した事を幕府に通告、公使館を麻布山善福寺に置いた。
貿易商が本職のハリスは幕府の要請で度々、国際法の講演会を善福寺本堂において開催し、その折アメリカから持参した工芸品絵画等を鑑賞させ、幕吏の国際化にも勤めた。
また「十番わがふるさと」によると、護衛の武士に一度ステ−キを振る舞ったところ、味が忘れられなくなり中国人コックに頼んで盗食を繰り返した。これがハリスに発覚。注意されたため代理に犬を食べたが、うまくないので止めたらしい。
文久2年(1862年)、アメリカの外交方針変更により解任されたハリスの帰国後の様子は、歴史のなかに埋もれた。
昭和に入り(昭和10年)ハリス在任時の通訳見習いで、三井財閥関係者でもある益田孝氏が施主になり善福寺境内に顕彰碑が建てられ、除幕式には徳川家達氏、グル−駐日大使などが参列した。
その後、善福寺住職の照海師により幾度となくハリスのその後の消息を照会したが、墓所さえも不明であった。
そして1961年師がバチカンを初め世界の宗教団体に仏書を贈呈するイベントに出発のさい、アメリカ大使館からハリスの墓所発見の報が届いた。渡米の上ニュ−ヨ−ク、ブルックリン・ウッドの広大な墓所を3時間ほど探して遂に墓石を発見した。それは、顕彰碑よりも少し大きく、墓名の終わりに「フレンド・オブ・ジャパン」と記されていた。





<関連項目>

・麻布山善福寺(其の一)
・ヒュ−スケン事件
・続・ヒュースケン事件
・ハリスと唐人お吉
・ヒュ−スケンとお鶴、お里
・シーボルトの見た麻布
・シュリーマンの善福寺滞在















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20.鷹石(烏石)



 
   
磐井神社
磐井神社
   
磐井神社に現存する烏石(鷹石)
磐井神社に現存する烏石(鷹石)
   
磐井神社・烏石碑
磐井神社・烏石碑
   
烏石解説板
烏石解説板
近代沿革図集に”鷹石”という項目があり、「江戸の頃善福寺門前東町西北角に植木屋の四郎左衛門と言う物が居り伊豆から取り寄せた石面が鷹の形に見える石を店先に置いた所、松下君岳という者がきて石を所望し、元文6年(1741年)2月に鈴ヶ森八幡へ奉納した。君岳は 烏石山人と称した書家で、この石に銘を彫った。石が鷹の形をしていたのでこのあたりを里俗に鷹石と言う。(文政町方書上)」とあった。近所なので早速調べたが、鈴ヶ森八幡という神社はなく大田区の磐井神社であることがわかった。この神社は貞観元年(859年)創建で江戸期には将軍も参詣し、鷹石が寄進された事により江戸の文人、墨人たちにもてはやされた。この神社には他に鈴ヶ森の由来になる鈴石(鈴ヶ森地名の由来)、 狸筆塚などもあり、境内には万葉集にもよまれた笠島弁天もある。

また文政町方書上には、
元文(1736〜1740年)の頃東町の植木屋四郎左衛門は、伊豆より取寄せたる庭石の中に鷹の形が現はれた石があったので店先に据えて自慢したが 、いつしか町の噂となって處の名さへ鷹石と呼はるるに至った。然るに一日松下君岳といふ者がやつて来て、是非にと此の石を所望したので、 之を譲った處が、彼は此の石に烏石山人銘を加えて元文六酉(1741)年二月之を東海道の往来繁き鈴ヶ森八幡宮に奉納した。
と石の移転を記している。
そして江戸名所図会には移転先の鈴ヶ森八幡の項には、この石を「烏石として」、
烏石 社地の左方に在る。四五尺ばかりの石にして、面に黒漆を以て書くが如く、天然に烏の形を顕せり。石の 左の肩に南廓先生の銘あり、烏石葛辰是を鐫すと記せり。葛辰自ら烏石と号するも此石を愛せしより発するといふ。 江戸砂子い云、此石舊麻布の古川町より三田の方へ行所の三辻にありしを、後此地へ遷するなり云々。
としている。

その他、松下君岳は麻布山善福寺
柳の井戸横の碑文、麻布氷川神社の「麻布総鎮守」と書かれた額を揮毫している。    江戸期の書籍「兎園小説」の中で「麻布学究」こと大郷信斎は麻布の不思議な石を「麻布の異石」として取り上げているが、 その中で番外としてこの鷹石を紹介している。そして現存が確認されているのは、宮崎県に移設された「寒山拾得の石像」と大田区・磐井神社で現存する、この鷹石だけである。





<関連記事>
  
・続・鷹石
・麻布の異石
・寒山拾得の石像


















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21.我善坊の猫又



   
飯倉交差点の萬屋(麻布区史)
飯倉交差点の萬屋(麻布区史)
江戸の頃、麻布の我善坊に万屋という質屋があり主人の娘おたまと番頭の長次郎は、相愛の仲であった。と言っても恋文をやりとりするだけの清い恋愛であった。がある夜おたまの寝所に長次郎が忍んで行き、割ない仲となる。幸せが続いた2ヶ月目のある夜、いつものように寝所に忍び込んでおたまを引き寄せたとき、突然何かが長次郎に飛びついた。驚いたおたまの悲鳴で両親と家人が駆けつけると、 おたまの寝所でその家の猫と大ねずみが格闘していた。やがて大ねずみが猫の喉をかみ切り勝負が付いた。 猫の死骸をみると長次郎の着物をきていた。古くから家に住み着いていた猫が恩をわすれ化け猫となって 長次郎に成りすましていたものを、やはり古くから住み着いていた大ねずみが忘恩に憤慨して挑みかかったのだった。 その後おたまは、猫と同じ声で泣く赤ん坊を産み落とし、江戸の評判になった。ちなみに猫又とは怪猫、化け猫の事で、 猫が年をとると尾が二股になり怪をなす事から来ている。「安斎随筆」「本朝食鑑」などによると老猫の雄が 怪をなして人を食うのが猫又で、純黄の毛の猫と純黒の猫がもっとも妖をなすとある。

この話は我善坊の大鼠ともいわれ、
麻布七不思議の一つとして数えられることもある。また、島崎藤村は 大東京繁昌記−飯倉付近で、
〜この界隈には安政の大地震にすらびくともしなかったというような、江戸時代からの古い商家の建物もある。 紙屋兼葉茶屋としての万屋(深山)、同じ屋号の糸屋、畳表屋〜(P10〜11)
と記している。また文政江戸町方書上では万屋について、
延宝の頃より当町家持ちにて罷りあり、両替太物商い致し候ところ〜同人妻は伊兵衛の姉にこれあり、万屋一統と唱え、いづれも深山氏に御座候。
として深山一族を記している。文政江戸町方書上は元禄期の深山伊兵衛は赤穂浪士の堀部安兵衛と親交があり、討ち入り直前に安兵衛からの 手紙を受け取っていると記しており、その内容を掲載している。
亡主内匠頭志を達し継べきため
同氏弥兵衛我等この
たび亡命致し候、母・妻ならびに
文五郎儀、貴様相替らず
御懇意、別て頼み入り存じ候、
御内儀様・仁兵衛殿へも、
右の段、よくよく仰せ伝えられ
御心得下さるべく候、頼み存じ候 巳上

一二月十四日 堀部安兵衛

深山伊兵衛様
とある。

また、三遊亭円生の小話「かわらけ町」では太田蜀山人とともにこの店が舞台として描かれている。 また、妖怪文芸という書籍には講談「麻布狸穴の婚礼」として狸穴の狸が井伊直政の家老庵原助左衛門に討ち取られ 、たった一匹残った子狸が猫の乳で育てられ、やがて人に害をなす。この狸が退治されると、その仇を育ての猫が.... 〜云々、とその後にこの猫又・大鼠との因縁をほのめかしている。



<関連記事>

・麻布七不思議−我善坊
・麻布七不思議−狸穴
・番外七不思議
・麻布七不思議の定説探し
・麻布を騒がせた動物たち(其の壱・たぬき編)
・麻布を騒がせた動物たち(其の弐・きつね・他 編))
・狸坂
・狐坂
・たぬきそば
・麻布さる騒動−その1
・麻布さる騒動−その2
・化けそこねた泥棒キツネ
・猿助の塚
・堀田屋敷の狐狸退治







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22.麻布のショ−ン・コネリ−



小学生の頃、麻布で芸能人をよく見かけた。宮村坂のあたりにドリフタ−ズの合宿所があり荒井注がいた。その前に浅田美代子さんの家家があり、ちょっと下って渡辺たばこ屋でガウン姿の芥川隆行がよく電話をかけていた。またザ・ガ−ドマンの撮影を狸坂でよくやっていた。 極めつけは「007は2度死ぬ」 You Only Live Twiceの撮影で来日していたショ−ン・コネリ−を見かけたというおぼろげな記憶がある。場所は狸坂下の麻布荘(今なんと言うマンションか忘れた。)。しかし良く考えると映画の日本公開は1967年、撮影はその1〜2年前だろうから私は7〜8才である。10才くらいの時007カ−・アストンマ−チンのおもちゃを親に買ってもらったはっきりした記憶はあるが、ショ−ン・コネリ−は我ながら”ガセネタ”だと思う。どなたか事の真相をご存知の方は、ご一報下さい。ちなみにショ−ン・コネリ−はあの当時すでに”ズラ”だったと言われる。















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23.ラグ−サ・お玉



 
   
ラグーサお玉が眠る市谷山長玄寺
ラグーサお玉が眠る市谷山長玄寺
   
市谷山長玄寺境内のラグーサお玉碑
市谷山長玄寺境内
   
有栖川熾仁親王騎馬銅像
有栖川熾仁親王騎馬銅像
明治9年日本政府の依頼で来日したベンチェンッツオ・ラグ−サ氏は、三田四国町の工部美術学校に教師として勤め日本美術界に貢献した。その教師時代にモデルとして頼まれたのが19才の清原玉である。実家は芝新堀で園芸を営み、芝増上寺の差配をしていたので多くの地所を所有していた。やがて2人に愛が芽生え両親の許しを得たのち明治15年、お玉22才の年にラグ−サの故郷イタリア、シシリ−島パレルモのカトリック寺院でスカレニア公爵婦人の仲介で挙式をあげ、エレオノラ・ラグ−サと改名した。シシリ−での生活を始めた玉は、自らも筆を執り子供の頃から画才に恵まれていたため、やがて南欧と日本の美を融合した独自の画風で知られるようになった。そして夫の高等美術学校の副校長としてラグ−サを助け、また彼も生涯玉を愛し続けた。しかしお玉68才の時夫ラグ−サは玉の手を握りつつ永眠し、その6年後お玉は52年ぶりに日本へ帰国した。昭和8年10月26日諏訪丸が横は横浜港に接岸すると、親族とともにパレルモで知り合って27年ぶりの再会になる マリヤデンチチ夫人も出迎えた。帰国後日本美術界に貢献したお玉も昭和14年4月6日午前2時17分、79才で永眠し麻布宮村町の長玄寺に埋葬された。


有栖川公園の南部坂上広場にある「有栖川熾仁親王騎馬銅像」は、千代田区三宅坂の旧陸軍参謀本部にあったもので、1962(昭和37)年・東京オリンピックに伴う道路拡張 のため 有栖川公園広場に台座ごと移された。この銅像は1903(明治36)年10月10日に、大山巌、山県有朋らが発起人になり陸軍砲兵工廠で建設され陸軍参謀本部の庭に設置された。 この像を製作したのは、ラグ−サお玉の夫ベンチェンッツオ・ラグ−サに師事し、ロ−マ美術学校を1888年に卒業し、 日本で初めての本格的な銅像、靖国神社「大村益次郎像」 などを作成した彫刻家の大熊氏広である。また大熊氏広は工部美術学校を卒業したのち 現在有栖川公園となっている場所に計画された有栖川親王邸の新築工事の設計に加わる。 この邸宅はイギリスの建築家コンドルの設計によるフランス・ルネサンス様式を用いた純洋風のもので、氏広は舞踏室の柱の和楽器類の彫刻と車寄せの前飾りの彫刻などを受け持った。

☆長玄寺・ラグーサ・お玉碑文(十番未知案内サイトより転載)

ラグーサ玉女史

文久元年 江戸芝新堀の清原家に生まれ幼より画を好む偶々伊太利彫塑家ヴィンチェンツォ・ラグーサに洋画を学び  明治15年その郷里パレルモに伴わる後 同市新設の高等美術工芸学校副校長に任ぜられ ラグーサ校長を補佐す  明治22年結婚 エレオノラ・ラグーサと名乗る画名欧米に洽し昭和3年夫君逝く昭和8年半世紀余の滞伊生活に 別離し居所昔ながらの清原家に還る女史非凡の画才は南欧の絢爛優婉なる色調と日本人特有の構図の妙と典雅の筆致を 併せ東西融合の独自の境を開く 昭和14年4月5日突如昏睡 翌6日早晨79歳を以て逝く時に枕頭の水彩顔料未だ 水を含みて残る 嗚呼女史は絵画の化身なりき    昭和14年11月建 玉光会 」

堀 通名 菊地鑄太郎 佐野 昭 金澤正次

松岡 壽 渡邊 直達 畑 正吉 岩崎雅通





<関連項目>
有栖川公園
三田小山町



























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